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   (更新・2019・03・03)

 ☆1.『星の王子さま』のあらすじと、作者・サン・テグジュペリの大特集 

 

 ーー目次ーー

 

 1.ボクの『星の王子さま』への思い

 2.『星の王子さま』のあらすじ

 3.サン・テグジュペリと、『星の王子さま』とのエピソード(逸話)

 

 ーー本文ーー

 

 1.ボクの『星の王子さま』への思い 

 

  サン・テグジュペリの作った『星の王子さま』は、あの聖書に継ぐ、出版部数であると

 聞いたことがあります。

 

  140カ国で出版されている驚異的なベストセラーなのだから、それもありえるでしょう。

 (世界は 約173ヶ国ですから、80%以上の国です)

 

  サン・テグジュペリが自分で描いたという絵や文章を見れば、彼が、子どもの心を

 持ったまま 大人になったような人であることは、きっと誰もが感じることでしょう。

 

  『星の王子さま』は、自由な子どもの心を思い出させてくれるといわれます。

 

  NHKの番組で、人類の すさまじい勢いの 環境破壊に警鐘(けいしょう)をならす

  『 地球大進化・46億年、人類への旅、そして未来へ 』

 ( 俳優の山崎努氏が出演していました ) という 特集がありました。(2004年12月放映)

 

  「しかし、天と地との 大変動を待たずしても、実は現在、地球は大変動の真っ只中

 (まっただなか)にあります。(中略)毎年、人類は、200億トン以上の 二酸化炭素を

 排出しています。人類が生き残れるか どうか、その鍵(かぎ)を 握(にぎ)るのは、

 人類を ここまで 進化させる 原動力となった 言葉です。

 

   言葉を使って、自らの暴走に 歯止めをかけ、言葉によって、共に 努力しあう。

 言葉という、両刃(もろは)の剣(つるぎ)。その使い方いかんに、人類の未来は、

 かかっているのです。」

 

   こんな 女性の声の ナレーション(説明)が、その番組の テーマの まとめとして、

 その終りころに 流れていました。

 

  「遺伝子とは別の、新しい進化の方法、言葉。それは、かつて栄(さか)えた、

 どんな王者 (恐竜など) よりも 繁栄する 道を、人類に 切り開きました。

 

   しかし、皮肉(ひにく)なことに、それが、私たちに大きな試練をもたらしています。

 言葉によって、急速に進化することで、人類は、地球を、すさまじい勢(いきお)いで

 変えています。私たちは、王者が 背負う 宿命である 絶滅を、わたしたち自身の手で

 早めてしまっているのかもしれません。」

 

  「言葉によって 繁栄している人間は、言葉によって 絶滅へ 向かうのかもしれない」

 ・・・NHKの番組の、人類への警鐘の言葉が、わたしの頭の中のどこかにあって、

 離れない感じがします。

 

  結局のところ、世界の平和や 明るい未来の実現は、人類のすばらしい道具であるはず

 の 『言葉』を、世のため、人のために、有効に使えるか、にかかっているのだと思います。

 

  平和や明るい未来は、《いつも自由な子どもの心を思い出すことができる人間》

 ・・・そんな優しい心の人間ばかりに地球全体があふれた時に、実現するような

 気がするのです。権力や欲望、偏見や怒りばかりに とらわれないで、

 自然や芸術や他者と、楽しめる心の人たちに、世界中があふれたときに、

 平和や明るい未来は実現できるだろうと、わたしは想像するのです。

 

  わたしは そんなことを考えますから、『星の王子さま』という本の世界的な人気は、

 世界平和や 明るい未来の実現への、ひとつの希望であるような気がしてきます。

 そして元気も 出てくるのです。

 

  また、サン・テグジュペリの文学は、書斎に こもってばかりで、作られたような、

 頭でっかちな、理論や観念だけの言葉ではなかったのでしょう。自然から学び、

 自然を愛して、その中から生まれた芸術だったのでしょう。そんな 自然との親密な

 関係から、良質なリアリティ(真・善・美)も生まれるでしょう。そんな彼の生き方は、

 芸術家の王道だったとも、感じます。

 

  また、『星の王子さま』は、宮沢賢治の 『銀河鉄道の夜』と 比較されて、ともに

 文学の 双璧(そうへき)とも いわれています。

 

  これだけポピュラー(人気がある)になっているのに、わかりにくい、難解な作品で

 あるところや、作者の想像力の 基(もと)に、実際の体験が、色濃く 内包されている

 ところなども、 この2つの作品は似ているでしょうか。

 

 

 

 2.『星の王子さま』のあらすじ

 

  『星の王子さま』の冒頭に登場する、一見すると、帽子(ぼうし)のような 絵を

 ご存知でしょうか。

 

  この物語の語り役である『ぼく』と 名乗る 飛行士が、子どもの時に 描(か)いた

 絵なのです。

 

  その絵は、帽子ではありません。あの大きなゾウを飲み込んだウワバミ、

 つまり 蛇(へび)の姿だったのです。

 

  物事の本質を 見ようとしない 大人(おとな)たちは、帽子だろうが、ゾウだろうが、

 ウワバミ の 中身だろうが、絵なんかは、やめにして、地理と 歴史と 算数と 文法の

 勉強をしなさいといいました。

 

  『星の王子さま』の本の 語り役である 『ぼく』 は、六つの時に、絵描きになろうることを

 あきらめました。大人たちは描(か)いた絵を 理解してくれないからです。

 「 これ、こわくない? 」 と 聞いても、大人たちは 「 帽子がなんでこわいものか 」と

 いうのです。

 

  しじゅう、これは、こうだと 説明することに、子どもは 疲れてしまうのです。

 そこで、しかたなく、『ぼく』 は、別の職業を選びました。それが、飛行機の 操縦をする

 飛行士だったのです。

 

  『星の王子さま』は、自由な 子どもの心を 思い出させてくれます。

 

  『星の王子さま』は、アフリカの砂漠に、不時着した その飛行士と、小さな星から

 やってきた 王子さまとが出会い、友情を育(はぐく)んでいく物語です。

 

  王子さまは、家(いえ)一軒ほどの、小さな星に住んでいました。その星には、

 一輪の 小さなバラが 咲いていました。

 

  大切に 世話をしていた 王子さまですが、バラの わがままに 嫌気(いやけ)がさして、

 星を 飛び出し、旅に 出たのです。

 

  地球には 同じような 花が たくさん咲いていました。しかし、王子さまは気づきました。

 自分が 愛した バラこそが、かけがえのない 特別な バラなのだと。

 

  そんな 王子さまに、キツネは、秘密を 教えてれます。

 

  「心で 見なくちゃ、ものごとは 良く見えない ってことさ。かんじんなことは、

 目に 見えないんだよ」

 

  「かんじんなことは、目に見えない」と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。

          

  本当に 大切なものに 気づいた王子さまは、バラのもとへと 帰るために、

 空へと 消えてゆきました。

 

  作者 アントワーヌ ・ ド ・ サン = テグジュペリ ( 1900 - 1944 )

 

 

 

  3.サン・テグジュペリと、『星の王子さま』とのエピソード(逸話)

 

   生まれた国、故国フランスでは、ユーロ紙幣(お札)に 切り替わる前の

 50フラン紙幣に、テグジュペリの肖像が描かれてあった。

 

  そのほか、テグジュペリ自(みずか)らが描いた 星の王子さまと、ゾウを

 飲み込んだヘビの挿絵と、紙幣の裏には、彼自身が乗っていた 飛行機も

 描かれてあった。

 

  その飛行機は、プロペラのついた、頭の上と 機体の下に 翼(つばさ)のある、

 クラシックなものである。

 

  それほどに、テグジュペリは フランス国民に 愛されている 作家であった。

 

  2004年、4月、ひとつのニュースが 世界を駆け巡った。60年間、行方不明

 になっていた、サン・テグジュペリの 飛行機が 海底から 発見されたのである。

 

  フランスでは、この発見を記念して、盛大な航空ショーが、フランス 航空博物館

 において開かれた。

 

  フランス航空史に輝く飛行機が 次々と 登場したあとに、サン・テグジュペリが

 最後に搭乗した飛行機、《P38・ライトニング》が紹介された。

 

  サン・テグジュペリが乗っていた飛行機の機体は 4日間だけ 一般公開された。

 機体に刻まれた製造番号 (2734)が、発見の決めてだったそうである。

 

 

  1941年の12月には、日本の 真珠湾 攻撃があった頃で、世界中が

 戦争 (第二次世界大戦)の 最中(さなか)であった。

 

 1944年、飛行士である サン・テグジュペリの乗った 飛行機は、写真偵察の

ために、ボルゴ基地から 発進したが、その後、消息を絶った。

 

  フランス上空は ドイツ軍に占領されていた。飛行機が 故障したのか、どこかに

 墜落したのか、ドイツ軍に 撃墜されたのか、その真相は、今もわからない

 そうである。

 

  サン・テグジュペリは、11世紀から続く、名門 貴族の 長男として、1900年

 6月29日に、フランスの リヨン市に生まれた。

 

  リヨン近郊の サン=モーリス・ド・レマンスの町、彼は、幸せな子ども時代を

 この町で 過ごした。1906年頃に 兄弟たち五人で撮った写真がある。

 左から、長女のマリ=マドレーヌ、妹のガブリエル、弟のフランソワ、そして、

 サン・テグジュペリ、次女のシモーヌ、と仲良くならんでいる写真である。

 

  サン・テグジュペリが 子ども 時代を 暮らした お城は、現在は 博物館と

 なっている。

 

  サン・テグジュペリの 甥(おい)たちが、いまも管理をしている。食堂だけは

 当時のままに 保存してある。お城といっても、三階建ての学校の校舎のような

 感じの建物である。

 

  「音楽や演劇、文学や絵画など、彼の母親は、とても自由で オープンな

 教育を、子供たちにしていました。それで、サン・テグジュペリは、とても想像力

 豊かな 子どもに育ったんですよ。少々、荒々しい、わんぱくなところがあるようで、

 まわりが 彼を、押さえつけるような 感じだったそうですよ。」

 と語るのは、お城を管理している、甥(おい)のフランソワ・ダゲーさん。

 

  紙や木で作った 羽(はね)のついた 空飛ぶ自転車で、庭を 走り回って

 いたそうである。

 

  1912年、12歳の時に、彼は、「親の 許可を 得た」と 嘘をついて、お城の

 近くの 小さな空港(アンベリュー飛行場)で、初飛行を体験した。

 

  「その飛行機は、その三日後に墜落したんだ。それほど、当時の飛行機

 は 本当に 危険だったんだ。でも当時の人は、墜落すればするほど、飛行機に

 乗りたくなったんだそうだよ。ははは」

 

 と、インタビューに答えるのは、アンベリュー飛行場クラブ会長のディディエ・

 ブロッサールさんである。

 

 サン・テグジュペリは、その初めての感動を、詩にたくした。

 

  夕べの 涼風に 翼が 震(ふる)え

  エンジンの 歌声は

  眠れる 魂を 慰 (なぐさ) める

 

  彼の飛行士としての人生は、12歳のこの瞬間に決定づけられたのである。

 

  現在もアンベリュー飛行場には、15歳の少年たちが、飛行機の操縦を

 教(おそ)わりに、通っている。サン・テグジュペリの、空への情熱が、しっかりと

 少年たちに受け継がれているといえそうだ。

 

 サン・テグジュペリが飛行免許を取得したのは、1921年の21歳の時だった。

 

  彼は、義務兵役中に、操縦を 覚(おぼ)えた。当時それが、航空免許を取る

 早道だった。彼は 特別に 操縦が上手(じょうず)なわけではなかった。

 

  飛行訓練の成績表には、62人中、27番目だったという記録がある。墜落して、

 頭蓋骨(ずがいこつ)を骨折するなんてことも度々あったそうだ。

 

  そして、1926年、26歳のとき、航空 郵便 会社 ラテコエール 社に 入社する。

 

  飛行機で郵便を運ぶ 航空郵便は、第一次世界大戦の後、飛躍的に発展した

 航空事業である。その飛行士は当時の花形職業であった。

 

  サン・テグジュペリの 念願の飛行士としての 人生が始まったのである。

 

  当時、フランスと アフリカ 間(かん)の 航空 郵便 事業を開拓しようとした、

 航空郵便の先駆者といえる、ラテコエールは、まずは、政府に事業の許可を

 得なければならなかった。そこで彼は、モロッコ(アフリカ)に赴任していた

 フランス人の総督に、毎日発行される《新聞》を 贈ったそうだ。新聞、つまり、

 日々の新しいニュースによって、飛行機のスピード、便利さがわかるように。

 

  当時の飛行機は 現在と違って、大変に危険な 乗り物だった。

 

  それにもかかわらず、サン・テグジュペリたちの《ラテコエール社》では、

 アフリカの路線を開拓していったのだった。サハラ砂漠の西海岸沿いの、

 バルセロナ、カサブランカ、ダカールなどが 路線の ポイントであった。

 

  このアフリカにおける体験こそが、『星の王子さま』の誕生の《秘密の鍵(かぎ)》

 であった・・・。

 

  サン・テグジュペリが乗った、航空郵便で活躍した頃の飛行機は、翼も一枚に

 なっている プロペラ機の《モラーヌ 138(1923年製)》であった。

 

  それは、操縦 訓練用の飛行機だった。現在の飛行機と比べれば、おもちゃの

 ようにも見える。エンジンを始動するときは、誰かにプロペラを、両手で、回(まわ)

 してもらう必要があった。そのプロペラは、なんと!木製である。コックピット

 (操縦席)は 屋根も 窓もない 解放式。

 

 さらに、無線もサスペンションもなく、ブレーキさえもない。飛行機の操縦の失敗は、

 即、死に結びついた。当時は、飛行機の遭難(そうなん)などのために、伝書鳩を

 一緒に 乗せていたそうである。

 

  現在も、プロペラ機の《モラーヌ138》は、空を 飛べる状態で 実在する。みなさま

 は 試乗してみたいですか? (^^)

 

  では、ヘルメットと ゴーグル(大きなレンズのめがね)を着用ください。

 

  大きな エンジン音ともに、《モラーヌ138》は、いっきに上空へと飛び立ちます。

 

  風がすべての音をかき消してゆきます。太陽が近づいて見えます。耳には、

 ザアーザアーとした強い風の音ばかりが大きく聴(き)こえます。自分の話す声は

 まったく 聞こえなくなります。

 

  真下(ました)の 地上を見れば、自分の飛んでいる影も見えます。自分が鳥に

 なったような 気がしてきます!(^^)

 

  サン・テグジュペリの時代、空は 人類にとって 未知の 領域だった。

 

  飛行機の 操縦とは、飛行機という未発達の機械と、予測不能な自然や、

 自分自身と 闘(たたか)うこと だったといわれる。

 

  ぼくは、自分の 職業の中で 幸福だ。

  ぼくは、自分を、

  空港を 耕(たがや)す 農夫だ と思っている。  

         

             ( 堀口大学 訳 「人間の土地」より)

 

  サン・テグジュペリは、スペインの ピレネエ 山脈を 越え、ジブラルタル海峡を

 渡(わた)り、アフリカ大陸へとその飛行距離を 伸ばしていった。

 

  ありがとうございました。の小さな玩具(おもちゃ)みたいな飛行機で、

 彼がアフリカまで飛んだということは 驚異的な信じがたいことでもある。

 

  航空郵便の飛行士として、力を 蓄(たくわ)えていった彼は、1927年、アフリカの

 サハラ砂漠の、《中継飛行場》の、キャップ・ジュビー 飛行場長に任命された。

 27歳の時だった。

 

  星の王子さまの舞台も、サハラ砂漠にそっくりの砂漠であった。そして実際に

 サハラ砂漠には、フェネックという名の野生のキツネ がいて、その フェネックは、

 王子さまに 「大切なものは、目に見えない 」と教える、あのキツネにそっくりなので

 あった。

 

  フェネックは、とても臆病であり、人間の前に姿を見せることが、ほとんどない

 そうである。サン・テグジュペリは、フェネックを飼(か)いならそうとしたけど、

 できなかったそうである。

 

  砂漠の谷の小さな村 (エル・ケラア・ムグナ村) には、なんと、バラが、咲いている

 そうである。モロッコの野生の、ピンク色のバラで、そっと顔を寄せると、 いい香りが

 するそうだ。春の最盛期には、あたり 一面が バラ色になるそうである。

 

  『星の王子さま』 に登場するバラが、実際に、砂漠に咲いているのであった。

 

  また、別な話ですが、星の仲間である 隕石(いんせき)が、よく サハラ砂漠では

 発見できるそうだ。

 

  その隕石は、 高額で現在でも取引されて、いまもモロッコの民芸品店で売られ

 ている。障害物(しょうがいぶつ)のない砂漠では、隕石は発見しやすく、

 サン・テグジュペリの作品の中にも、星の粉である 隕石を見つけて、感激する

 エピソードがある。

 

  サン・テグジュペリは、砂漠での孤独な生活の中、キャップ・ジュピー基地舎室

 (しゃしつ)で、文章を したためるようになる。

 

  しかし、それは 『星の王子さま』のような童話ではなく、仲間の飛行士たちの

 使命や責任感や栄光などを綴(つづ)ったものだった。作家人生の始まりである。

 

  そして、『人間の土地 』や『 夜間飛行 』 や 『 南方 郵便機 』 『 戦う 操縦士 』 など

 の小説が 誕生した。そして、人気作家となっていく。

 

  作家として成功しても、飛行機の操縦を決してやめなかった。彼にとって空を飛ぶ

 ことは、生きることそのものだった。

 

  また、1931年(30歳)で彼は結婚している。

 

  1931年、31歳のときの 『夜間飛行』 は、航空郵便に命をかける男たちの

 一夜を描き、世界中で大絶賛された。フェミナ賞を受賞し、映画化もされた。

 

 『夜間飛行』は、砂漠の赴任ののち、南米 航空路線を、新規開拓する任務に

 ついているときに書かれた。アンデス山脈の突風が容赦なく 吹きつけ、

 夜間飛行では 視界も 利(き)かない。自(みずか)らで 切り開く 仕事だった。

 

  1935年、35歳。パリ と サイゴン 間(かん)の、飛行 新記録に挑戦した彼は、

 夜間 飛行中、リビア砂漠に 不時着する。

 

  怪我(けが)は 無(な)かったが、残されたものは、半リットルのコーヒーと、

 ワイン 少々、1個の オレンジと ブドウ だけだった。

 

  水なしで、たった19時間しか生きられないといわれた砂漠を、彼は3日間、

 200キロ 歩き続けて、遊牧民に助けられたそうだ。

 

  何度も、命を失いかけたサン・テグジュペリのことを思えば、彼の人生も、

 『星の王子さま』の作品の誕生も、奇跡的な、不思議な出来事であるのかも

 しれない。世の中とは、そんないろいろな奇跡によって、多くの人々の心の、

 貴重な財産がつくられて、平穏(へいおん)が保(たも)たれているように思う。

 

  さて、その奇跡の生還から、6年後に、『星の王子さま』は執筆された。

 

  自(みずか)らの体験を重ねるかのように、その物語の中の飛行士も、不時着

 から 6年後に、星の王子さまと砂漠で出会ったことを回想している。

 

  話は変わりますが、星の王子さまの絵(イラスト)も、すばらしいですよね。

 

  第二次 世界 大戦中、ニューヨークにいたころに、サン・テグジュペリは、

 大きな木製のテーブルにも、星の王子さまのイラストを《いたずらがき》のように

 彫(ほ)っている。よく 彼は、星の王子さまを描(か)いていたらしい。

 

  そのテーブルの絵は、 確か 星の王子さまなのであるが、王子さまの初期段階の

 絵なので、青年のように見える絵である。いまの王子さまの、かわいらしさが、

 わたしにはあまり感じられなかった。

 

  ちなみに、その大きなテーブルは、現在も、航空会社・エール・フランスの 一角に

 ある。それは、かつてニューヨークにあった 貴重なテーブルであった。喜劇王の

 チャップリン、俳優の ジャン・ギャバン とかの有名人のサインも彫られてある。

 

  よく彼は、カフェなどで、絵を書いて、「 こんな 男の子が、僕の中には住んで

 いるのさ 」と 語っていたそうである。それを見た 編集者が、子どものための物語を

 書くことを 勧(すす)めたのだそうた。

 

  編集者とのそんな歓談(かんだん)がなかったら、世界的な名作が存在しなかった

 かも知れないと思うと、人生というか世の中は、奇跡に満ちあふれていると思う。

 

  1939年、39歳のときに、第二次世界大戦 が 勃発(ぼっぱつ)する。

 

  サン・テグジュペリは、偵察飛行で母国に貢献した。しかし、1940年、39歳の

 とき、パリは ドイツ軍に 占領される。

 

  彼は、アメリカ、ニューヨークへと亡命する。その時に、『星の王子さま』は

 書かれたのである。

 

  『星の王子さま』の、1942年頃に書かれた草稿・・・、あの帽子のような、

 ウワバミがゾウを飲み込んでいる、とても楽しいイラストが描かれてある・・・、

 は 現在も残っている。

 

  1943年の4月には、英語版と フランス語版が 出版された。

 

  『星の王子さま』は、ひとりの人に、捧(ささ)げられている。

 「子どもだったころの、レオン・ウェルトに」 と。

 

  そのレオン・ウェルト(1878-1955)は、22歳年上のジャーナリストであった。

 ニューヨークに亡命する前、サン・テグジュペリは ウェルト を たずね、さまざまな

 相談をしている。大親友で、父のような 存在だった。

 

  ふたりの 絆 ( きずな )を 感じさせる たくさんの手紙が 残されている。

 

  その手紙を、息子の クロード・ウェルトさんが 今も 大切に持っている。

 

  息子の クロードさんは、サン・テグジュペリに自転車や 飛行機に乗せてもらった

 思い出があるそうである。

 

  「親愛なる、レオン・ウェルトへ。あなたが いなくて、さびしいです。」

 

  「さよなら。ウェルトさん。雨の日の涙。」

 

  「フランスは、なかなか、がんばっている。希望を失ってはいけない。」

 

  そんな手紙には、星の王子さまを 思わせる 絵も 描かれていた。またドイツの

 戦闘機の名前が描かれた 雲や、ひつじや、バラなども描かれて、『星の王子さま』

 の誕生も、間近(まじか)であることを うかがわせる。

 

  「なぜ、サン・テグジュペリは、お父様に、『星の王子さま』を捧(ささ)げたのだと

 思われますか」

 

 という 女性のインタビューアー(聞き手)に、息子のクロード・ウェルトさんは、

 

 「それは、ふたりの間に 大きな友情があったでしょう。当時 フランスは、あまり

 愉快(ゆかい)な 状態では ありませんでした。サン・テグジュペリは、亡命先の

 アメリカから、父やフランスのことを 考えていてくれたに 違いありません」

 

  1943年、42歳のとき、ついに、『星の王子さま』が アメリカで出版された。

 

  そして、サン・テグジュペリは、偵察機の飛行士として、再び、参戦する。もはや、

 若くはなかったサン・テグジュペリにとって、無理をおしての参戦だった。

 

  飛行するときに、着用する電熱航空服を、なんと、他者に着せてもらっている

 写真が、今も残っている。

 

  何度も墜落をくりかえし、その度に、大怪我(けが)をしている彼の身体(からだ)

 は、あちこち故障や傷だらけで、自分で服を着る力もなく、飛行機に乗れる状態

 ではなかったのだった。

 

  それでも、空を飛んだ理由とは、何(なん)だったのでしょうか。彼は妻に、

 このような手紙を送っている。

 

  ぼくは、ものすごく疲労している!

  それでも、ぼくは出発する

  出発しなくてもいい理由は山ほどあり

  兵役免除(へいえきめんじょ)を受ける根拠だって十もある

 

  ぼくは出発する

  そうしなければならない義務があるのだ

  ぼくの良心と折り合いをつける方法は

  ひとつしか知らない

  それは できるかぎり 苦しむことだ

 

  1944年 7月31日 晴天。偵察飛行に飛び立った。サン・テグジュペリは、

 二度と 帰った来なかった。

 

  その一ヵ月後の、やはり1944年、パリは 解放された。

 

 「サン・テグジュペリは、亡命先のアメリカから、『星の王子さま』の本を

 贈ってくれていました。しかし、混乱の中、父のもとには届きませんでした。

 戦争が終り、本が届いて、初めて『星の王子さま』が、父に捧げられたことを

 知ったのです。父は彼の気持ちがよーくわかったと思います。何も云わず、

 深く心を打たれていました。」

 

  と、息子のクロード・ウェルトさんは、そう話をした。

 

  「では、サン・テグジュペリが亡(な)くなってから、お父様は、『星の王子さま』

 という本が、自分に捧げられているということを知ったということですよね」

 

  と、インタビューアの女性。

 

  「そうです、そのとおりです。ラジオで、サン・テグジュペリが、行方不明に

 なったニュースを聞いたんです。そのころ パリが解放されて、私たちは

 幸せな気分でした。でも、その幸せは、そのニュースを聞いて消えてしまいました。

 ・・・彼はどこかで、不時着していると 信じていました。きっと、どこかで・・・」

 

 (終)

 

 星の王子さまの公式ホームページ

 http://www.lepetitprince.co.jp/

 スペイン情報発信センター

 http://www2u.biglobe.ne.jp/~fmintl/

 フランス政府観光局

 http://www.franceinformation.or.jp/index/index.html

 フランス・リヨン市

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/lyon/yokoso.html

 サハラ〔アフリカ)砂漠

 http://www.ab-road.net/ab/sight/000700.shtml

 ジブラルタル海峡

 http://www.ersdac.or.jp/todayData/02.8/pict_j.html

 http://www.ab-road.net/ab/sight/000613.shtml

 http://www.geocities.jp/sherpa_scotland/gibraltar.html

 

 【資料】  * 特集サン・テグジュペリ ユリイカ (詩と批評) 2000年7月号

             * TBSテレビ 日立・世界ふしぎ発見!(2004年放映)

       * 星の王子さま 内藤濯 訳 岩波書店

       * NHKの番組 (2004年12月放映)

        『 地球大進化・46億年、人類への旅、そして未来へ 』

 

 ◇ 資料などの 引用は 『 著作権法 第三十二条 』 の 範囲内と 考えております。

     あらためて、著者、訳者、編者、刊行者の 皆様に 感謝いたします。

 

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