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 ☆小説(または文芸、または芸術)とは何か?その多様性など。

 

 「本というものは、作者の意図を、的確に伝えなくてはいけません。

人によっては、難しい単語を、わざと使ったりしますが、それは

アマチュアのやり方だと、私は思っています。

難しい単語は、物語を語る上では、何の意味もないのです。

大切なのは、読者を楽しませる・・・、ということなのです。」

 

《作家・シドニィ・シェルダンの言葉。NHK・BS・ブックレビューより》

 

◇20世紀を代表する作家 | THE 21 なんでもランキング

http://www.php.co.jp/fun/the21/detail.php?page=00-3-1.html

 

ーー目次ーー

 

1.私的な、Zの『まとめ』として。

2.芥川龍之介の天才的な先見(予見)。

3.芥川と谷崎潤一郎との小説についての論争。

4.小説が小説らしいことに恥(は)じる田中小実昌(こみまさ)氏。

5.「小説とは何か?」を考え続けて小説を書く、保坂和志氏。

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

7.村上春樹氏の文学観。村上氏は「フランツ・カフカ賞」の受賞も

  決まり、ノーベル文学賞も最有力候補とか。

8.『文学者の覚悟』を説く、大評論家、人生の達人の、小林秀雄。

9.小説のリアリティについて、三島由紀夫氏と中村光夫氏の対談。   

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

ー本文ーー

 

1.私的な、Zの『まとめ』として。

 

 ぼくもまた、小説を書き始めた20代の頃から、小説とは何か?と

思うことがよくあった。「文学とは何であるかという問いに対する答えは、

人それぞれにちがう」と、『文学とは何か』で加藤周一氏は述べている。

この特集は、そんな文学や芸術についての『まとめ』のような試みである。

 

 この特集に、引用させていただいた文章の多さからいっても、奥が深い

テーマ(設問)で、簡単に答えなどでない問題ともいえる。しかし、単純化

して答えてみたくもなってくる。ぼくにとっても切実な問題なのである。

 

「作家の価値は、人の記憶に残る作品をどれだけ書けるかできまる」

著書の『作家の値うち』で、述(の)べているのは、気鋭の文芸評論家の

福田和也氏である。小説も、ほかの文芸も、ほかの芸術も、『人の記憶に

残る作品』のほうが、すぐれた作品といえるのだろうか。

 

 名作は簡単には作れない。ただ、名作が作れないから苦悩するというのも、

転倒(=煩悩のために、誤った考えやあり方をすること)した話であろう。

 

 以前、山梨の文学館での講演で、『エーゲ海に捧(ささ)ぐ』で、芥川賞

受賞の作家で、世界的な画家の池田満寿夫氏がこんな話をしていた。

 

「百年後に、どの作品が読み続けれているかなんて、誰にもわからない

のですから、みなさんも、楽しみながら、創作とかがんばってください!」

 

 この話には、妙に感銘したぼくであった。確率からいっても、世に問える

名作を作るなんて、宝くじを当てるよりも、難(むずか)しいことだと思う。

 

若桜木 虔(わかさきけん)氏は、著書『作家養成講座』の中でこう述べて

いる。これは余談になりますが。

 

「作家予備軍(あわよくばプロ作家になりたいと思っている人)は全国に

10万人いるといわれている。その中で新人賞を受賞して、デビューできる

のは、地方の群小の新人賞を入れても、年間500人程度のものだ。

 

ところがそれはゴールでなく、実はスタート・ラインなのである。幸運にも

デビューできた中で、果たして100人に1人も生き残れるか否(いな)か、

というほどに生き残るのが難しいのが、この世界なのである。(中略)

 

 文筆一本で妻子を養えるほど(女性ならOLの三倍以上)の収入を

得ている人は、脚本とか劇画原作といった他ジャンルを加えても、せいぜい

日本全体で300人くらいであろうと思われる。森村誠一さんなどは、

『デビューした中での生存確率は、500人に1人の割合である』と言って

おられる。要するに年間で1人しか生き残らない、ということである。」

 

 

 話は、横道にそれましたが、作品の中にあるリアリティというものは、

当然、『人の記憶に残る作品』の中に、鮮烈にあるものであろう。

 

 リアリティとは何のことだろう。抽象的な言葉である。すくなくともリアリティ

の源泉とは、晩年の芥川龍之介が『文芸的な、あまりに文芸的な』の中で

語った《詩的精神》や心や魂に届くような《詩的なもの》のことだと思う。

 

 芥川は、《詩的精神》についての説明として、「純粋であるか否(いな)か

の一点に依(よ)って芸術家の価値は極(きわ)まる」と述べている。

 

 リアリティについて、優れた論理的な見解を、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』

に言及しながら、養老孟司(ようろうたけし)氏が説(と)いている。

 

 この特集の【ナンバー・10】に掲載させていただいてあるが、養老氏が

語るように、リアリティとは、『真・善・美』のことであると、ぼくも思う。

 

 ノーベル賞作家の大江健三郎氏が、アメリカのノーベル賞作家のフォーク

ナーについての話を、安岡章太郎と対談で次のように語っている。

 

「フォークナーのインタビューを読むと《響きと怒り》という小説は、ある日、

窓から眺めていたら、木登りしている女の子の、下着の尻(しり)が汚れて

いるのが見えるというイメージから、小説を書き始めたと言っているんです

ね。その汚れた下着といったイメージの底に含(ふく)まれた、一種の近親

相姦的な魅力、あるいは反発感とかいうような感じが柱になっている。

 

 本質的にはそのイメージのみで成り立っているとことがある。すくなくとも

そういうフラッシュみたいに、過去の思い出の中からひらめいてくるイメージ

から出発する小説家というものがあって、ぼくは自分がそのタイプであると

思います。」

 

 そんな詩的なイメージとは、やはり、芥川の語った、《詩的精神》や

《純粋であるか否かの一点・・・》にきわめて近いものなのであろう。

 

「ある本質に根ざしたイメージを、小説にむかってふくらませていくこと

しか僕にはできない」とも、大江健三郎氏は語っている。

 

 

 さて、では、詩とは何か?純粋とは何か?などとなると、また、話は

難(むずか)しくなるばかりである。しかし、芸術と詩精神、小説や文芸

と詩などは、身体と心のようなもので、切り離せない関係なのだろう。

 

 メキシコの詩人、批評家のオクタビオ・パス氏(1914〜?)は、1990年

にノーベル賞を受賞したが、こんな含蓄(がんちく)のある話をしている。

 

「ある詩が優れているかどうかは、それが変質しない程度に、散文を

どのくらい吸収しているか、その量(りょう)ではかることができる。また、

その逆もしかりで、優れた散文は詩を含(ふく)んでいなければならない。」

 

 

 さて、わたしとしては、『何よりも、楽しむことこそが、人生にも、小説にも、

文芸にも芸術にも、とても大切なことなのだろう』ということを、《まとめ》の

終りの言葉としたいと思います。《楽しむこと》は、ありふれたことですが、

つい忘れがちなことだからです。

 

 今回の特集の『ナンバー13』では、鈴木敏夫(としお)氏も「まず第一に

自分が楽しまければいけないわけよ。」と語っていますが、作品の創作や

鑑賞は、その苦労さえも《楽しむこと》がもっとも大切なのだと思うのです。

 

          (end)

 

 

2.芥川龍之介の天才的な先見(予見)。

 

 芥川龍之介(1892〜1927)は、小説について、先見性のある、

予見的な、下記のような話を述べている。

 

その『文芸的な、あまりに文芸的な』中で、「デッサンのない絵は

成り立たない。(カンディンスキイの『即興』などと題する数枚の絵は

例外である。)しかし、デッサンよりも色彩に生命を託した絵は

成り立っている。幸いにも日本へ渡ってきた何枚かのセザンヌの画は

明らかにこの事実を証明するものだろう。僕はこういう画に近い

小説に興味を持っているのである。」と書いている。

 

 20世紀の美術がカンディンスキイらの方向に流れていったのと

同じように、20世紀の文学もまた、絵画でいうデッサンに当たる

ストーリー(筋)よりも言葉そのものに重点が置かれる小説が

目指されるようになってきた。

 

 芥川は、同時代の美術の動向を正確に把握し、現代文学の展開を

予見していたと言えるだろう。

 

 ストーリー(筋)を、それほど重視しない、多くの現代作家の活躍は、

芥川の予見の正しさを証明しているようなものであろう。

 

 その代表的な作家としては、保坂和志(かずし)、田中小実昌

(こみまさ)、小島信夫(のぶお)、などの各氏が、頭に浮かぶ。

 

 この『文芸的な、あまりに文芸的な』は、芥川が、亡(なく)くなる年

(昭和2年、1927年)に書かれた。谷崎潤一郎と小説についての論争と

しても有名である。

 

 当時の文学の潮流は、のちに共産党委員長になる宮本賢治が、評論

「『敗北』の文学」の中で、「芥川はプロレタリア文学に敗北した」と

言い切ったほどで、芥川には厳しい逆風であった。

 

 芥川は、『文芸雑談』(文芸春秋1927年1月)において、

「プロレタリア作家も詩的精神をもてと云(い)いたい」と注文を

出している。精神の自由と詩的精神は、大正から昭和にかけての

激動期の中で、芥川が必死に求めてやまないものであった。

 

 芥川がいかに詩精神を愛したか。関東大震災の余燼(よじん=影響)

が収まらない1923年(大正12年)秋12月、芥川は、雑誌『新潮』に

『芭蕉雑記』という評論を載せている。

 

 震災という大災害を体験し、芥川は生きるということに思いをはせた。

そうした時、彼の目の前に現れたのは、俳諧を『生涯の道の草』と

言いつつも、それに真剣に取り組んだ松尾芭蕉(ばしょう)であった。

 

 芥川は「芭蕉の俳諧(俳句)に執(しゅう)する心は、死よりも

なお強かったらしい」と言い、また「芭蕉は少しも時代の外に

孤立していた詩人ではない。いや、寧(むし)ろ、時代の中に

全精神を投じた詩人である」とか、「最も切実に時代を捉(とら)え、

最も大胆に時代を描いた万葉集以後の詩人である」と最大級の

ことばの賛辞を連(つら)ねている。

 

 芭蕉への芥川の思い、共感は、亡くなる年の1927年の7月に書かれた

下記の『続芭蕉雑記』(文芸春秋)にも及(およ)んでいる。

 

「芭蕉の住した無常観は芭蕉崇拝者の信ずるように感傷主義を含んだ

ものではない。寧(むし)ろ、やぶれかぶれの勇(ゆう=勇気)に

富んだ不退転(=信念を持ち、何事にも屈しないこと)の一本道である。

 

芭蕉の度たび、俳諧さえ『一生の道の草』と呼んだのは必ずしも偶然では

なかったであろう。とにかく彼は後代(こうだい=のちの世)にはもちろん、

当代にも滅多に理解されなかった、(崇拝を受けたことはないとは

言わない。)恐(おそ)ろしい、糞(くそ)やけになった詩人である」

 

 すでに30歳を越えていた芥川には、しっかりと未来を見つめ、

歩まなければならない時期にさしかかっていた。芭蕉への接近には、

人生や芸術への戦いに真剣だった先達(せんだつ=先輩)への共感がある。

『糞(くそ)やけになった詩人』芭蕉は、芥川の目標でもあったのだ。

 

 人生に疲れきって亡くなった芥川の葬儀では、友人代表の菊池寛

(きくちかん、芥川賞や文芸春秋の創設者)が、「友よ安らかに眠れ」

と呼びかけ、「ただ悲しきは、君去りて、我らが身辺、とみに蕭条

(しょうじょう)たるをいかんせん。」と結んだ。

 

ちなみに、文芸評論家で明治大学教授であった中村光夫氏は、

芥川の死についてこう述べている。

 

「この文化の転回点の標石としての彼の自殺の意義は、すでに多くの

人々によって論ぜられているので、ここではくりかえしませんが、

ただ小説の歴史から見て、特に注意すべきことをいうと、死の直前の

彼と谷崎潤一郎との論争に示されているように、小説家として生きて

きた彼の芸術の崩壊(ほうかい)は、結局、彼が小説の『話』あるいは

仮構(かこう)を信じられなくなったということであり、これは彼に

制作の基礎たるべき道徳がなかったことからきています。」

 

【資料】日本の近代小説   中村光夫・著   岩波新書

 

◇蕭条(しょう‐じょう〔セウデウ〕)=

 [ト・タル][形動タリ]ひっそりともの寂しいさま。

「―たる十一月の浜辺には人影ひとつなく」〈長与・青銅の基督〉

 

◇菊池寛 - Wikipedia

 

◇はてなダイアリー - カンディンスキーとは

 

◇抽象絵画 - Wikipedia

 

◇カンディンスキーの絵について

http://www.dsn.t-kougei.ac.jp/cp/students/okamoto-/kadai/kadai2.htm

 

3.芥川と谷崎潤一郎との小説についての論争

 

 晩年の芥川と谷崎潤一郎との論争として有名な『文芸的な、あまりに

文芸的な』において、芥川は、小説の筋(ストーリー)に関して発言し、

筋(ストーリー)に芸術性を認めるのは疑問というような発言をした。

 

 芥川の言う「『話』らしい話のない小説」とは、「ただ身辺雑事を

描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最(もっと)も

詩に近い小説」で、「通俗的興味に乏(とぼ)しいもの」とされる。

 

「「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身辺雑事を描いただけの

小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも

散文詩などと呼ばれるものよりも遙(はる)かに小説に近いものである。

僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。

が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点

から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサン

のない画は成り立たない。(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚

の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り

立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかに

この事実を証明するのであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つて

ゐるのである。」

 

 また芥川は、「どう云(い)う芸術家も完成を目指して進まねば

ならぬ。あらゆる完成した作品は方解石のように結晶したまま、

僕らの子孫の遺産になるのである。たとえ風化作用を受けるにしても。」

と語った。ここに至(い)っても芸術との闘(たたか)いは、

芥川龍之介の重要課題であった。芥川はその最後の努力を谷崎潤一郎との

論争に傾け、自己の芸術的立場を示していたのである。

 

 芥川と谷崎のこの論争は、勝敗を云々(うんぬん)する性質のものでは

なかった。文豪同士の見解を示し合ったような文学史的な出来事であった。

 

谷崎の主張は、下記のようなものだった。

 

「筋の面白(おもしろ)さは、云い変えれば物の組み立て方、構造の

面白さ建築的な美しさである。此(こ)れに芸術的価値がないとは

云えない。」

 

「筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨てて

しまうのである。」

 

「《『話』らしい話のない小説》を説く芥川が、自分の小説も大抵は

話を持っていると明言しているではないか。また最も詩に近いのが

《『話』らしい話のない小説》であるとしながら、スタンダールの諸作の

中には、詩的精神が張(は)り渡(わた)っていると言うのはおかしいし、

さらに小説を作るのは、あらゆる文芸の形式中、最も包容力に富んでいる

からだというのは、左顧右眄(さこ・うべん=決心がつきかねて―する)

していることにほかならない。要は各々の体質の相違ということに

なりはしまいか。」

 

【資料】

図書カード:文芸的な、余りに文芸的な(その全文が閲覧できます)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card26.html

図書カード:続・文芸的な、余りに文芸的な

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card190.html

青空文庫 Aozora Bunko

http://www.aozora.gr.jp/index.html

 

 

4.小説が小説らしいことに恥(は)じる田中小実昌(こみまさ)氏。

 

 保坂和志氏と田中小実昌氏の小説観は大変に似ているようである。

 

「田中小実昌の小説を読みはじめると止まらなくなった。その短編は

『寝台の穴』といった。」という文章で『小実昌さんのこと』という

小説も書いている保坂和志であった。

 

 1979年、第81回直木賞と第15回谷崎潤一郎賞を受賞した田中小実昌氏の

『香具師(やし)の旅』(河出文庫)の解説で、井口時男氏がこう語る。

 

「田中小実昌と三島由紀夫が同年(大正14年=1925年)の生まれだという

ことは、もちろんただの偶然だが、おもしろい対比かもしれない。

(中略)

生き方が異なるのと同様、彼らの小説のスタイルもまるでちがっている。

一言でいえば、三島由紀夫は小説を《作る》が、田中小実昌は《作らない》

のだ。この恥じらいは、小説が小説であること(あるいは逆に、小説が

小説でしかないこと)への上質な批評意識を含んでいる。

 

この批評意識は、小説らしい小説を望む人々にとっては邪魔なものに

すぎまい。それが、小説家としての、田中小実昌の真価がなかなか

社会的に認知させなかった原因だといえるかもしれない。小説家・

田中小実昌は、小説が小説であること(小説が小説でしかないこと)への

疑いが広く共有され始めた70年代末にいたって、ようやく

《発見》されたのである。

 

いや、小説であるかぎり、まったく作らないことはありえない。どんなに

事実そのものだと主張したところで、始めがあり終りがあるひとまとまりの

話として語ってしまえば、それはまぎれもなく、現実とは異なる形に仕立て

られた(作られた)『お話』である。その意味で、田中小実昌もやっぱり

作る(語る)のだが、しかし、彼には作ってしまう(語ってしまう)こと

への照れやためらいのようなものがある。いわば彼が、小説が小説らしく

なってしまうのを恥(は)じるのだ。」

 

 

5.「小説とは何か?」を考え続けて小説を書く、保坂和志氏。

 

 95年に『あの人の閾(いき)』で芥川賞受賞の保坂和志氏は、

『書きあぐねている人のための小説入門』や『小説の自由』という

本などで、小説とは何か?を探求している。ちなみに保坂氏は、

新潮・新人賞の選考委員などでも活躍している。

 

「小説は、読んでいる時間のなかにしかない。読むたび、『世界』や

『人間』や『私』について、新たな問いをつくりだすもの、

それが小説なのだ。」 『小説の自由』(新潮社・刊)より。

 

 保坂氏は、『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社・刊)で、

小説とは何か?(その定義など)として【A】のようなことを、

また、すぐれた小説の条件として、下記の【B】【C】の2つをあげている。

 

【A】小説とは何か?(その定義など)

 

 保坂氏は、『小説の自由』という本の中で、「単純に『フィクション

(虚構)』や『現実』では分けられない、第三の領域があるという風に、

考える必要がある。(中略)小説を書いたり読んだりする行為は、

この第三の領域で起こることなのだ。」と述べている。

 

また、『書きあぐねている人のための小説入門』の中では、

 

「小説を何十年も書きつづけるためには、書きながら自分をレベル

アップさせていくという心づもりがないと耐えられない。自分が

レベルアップすれば、考えが前に進み、新しい疑問がわいてくる。

そしてそれが次の小説を書くための力となる。(中略)

 

 ここで誤解されないようつけ加えておくと、自分をレベルアップ

させる小説というのは、いわゆる『自己実現』のための小説でも、

『自己救済』のための小説でもない。

 

 よく、それまで鬱屈した人生を送っていた人が、小説を書くことで

救われたという話を聞くけれど、それは小説を矮小(わいしょう)化

した話だ。小説とは、もっと大きな何かに向かっていくもので、

書き手1人しか救えないほど貧弱なものではない。それに、小説を

書くことで『自己実現』や『自己救済』ができてしまえば、その人は

その後、小説が書けなくなる。これでは一生、小説を書き続けることは

できない。つまり、小説家になれない。

 

 自己実現や自己救済のための小説は、たまたま同じように鬱屈した

人生を送っている人がいれば、その人たちの『共感』を呼ぶかもしれない

が、読者を『感銘』させることはできない。『共感』というのは、

『わかる、わかる』という気持ちで、読み手にとっては一時の

慰(なぐさ)めにしかならない(ただ、『共感』は得られやすいので、

ベストセラーにはなる)。

 

 しかし、『感銘』というのは、自分よりも大きなものに出会った

ときの、心のそこからわき上がってくるような感動のことをいう。

(中略)

 

 私たちの言葉や美意識、価値観をつくっているのは、文学と

哲学と自然科学だ。その3つはどれも必要なものだけど、どれが

根本かといえば、文学だと私は思う。私たちは『美しい』や

『醜(みにく)い』などの言葉を当たり前のように使っているが、

それらの言葉はすべて文学が創(つく)り出し、そして文学に

よって保証されている価値だからだ。

 

 ふだん人がしゃべっている言葉を根底で保証するのが小説家の

仕事−−小説を書こうと思っている人は、はったりでもいいから、

そういう自負を持ってほしいと私は思う。」

 

 

「音楽であれ、小説であれ、表現というものは、たえず何か逸脱する

ものを孕(はら)んでいないと、やがて滅(ほろ)んでいく。表現とは

本質的にそういうものだ。1920年から60年代にかけてジャズが活気が

あったのは、ジャズが逸脱(いつだつ)し続けたからで、だからその

時代に録音されたレコードは、そこに逸脱する精神があるために、

いま聴いてもジャズに聴こえる。けれども、現在、60年代と同じ

スタイルで演奏されたジャズを聴いても、その音楽は逸脱する精神が

ないからジャズに聴こえない。それは過去の模倣にすぎない。

 

 小説も、かならず既成の小説から逸脱するものを孕(はら)んで

いない限り、いま書かれる意味はない。

 

 ただし、『新しさ』ということは、あまり考えなくていい。すでにある

小説は『飽和している』という感覚があるはずで(その感覚がないと

困る)、そこから逸脱しない限り、小説を書く意味はないと考えること

ーー。そういう姿勢がとても大切で、『新しさ』というのは、結果として

後から誰かがそう評価するだけの話、ぐらいに思っていればいい。

 

 では、どうすれば『逸脱』できるのか?カギを握っているのは

『身体性』だと思うが、その話は後でもう少し詳しく話します。」

 

 

「本当の意味での『小説語』で書かれた小説は、最初のうちはスラスラ

読めない。本来、小説とは新しい面白さをつくりだすことで、そのため

には『面白い小説とは何か?』ということをつねに自分に問いかけながら

書かれるべきものなのだが、そうして生まれた新しい面白さというのは、

新しいがゆえにそう簡単に読者には伝わらない。(中略)

 

『面白い小説』のほめ言葉として、よく『一気に読んだ』というのが

あるけれど、だからそれはほめ言葉ではない。そういう小説は、

すでにある面白さ、すでに読者が知っている面白さに則(のっと)って

(=従<したが>って)書かれているわけで、これは私の考える小説

ではない。

 

 それに、そもそもの話、『一気に読める』ということは、早く

その小説の世界から出てしまうということで、本当に面白い小説なら、

そんなに早くその世界から出たいとは思わないはずではないか。

 

『一気に読める』という評価の仕方は、どこかサラリーマン的で、

読書にまで、《生産性》や《課題を早く仕上げる》という社会的

価値感が入り込んでしまっている響きがある。そういう価値観が

いっさい揺らがないから『一気に読める』。当然、人生観や世界観が

変わることはなく、一気に読んで、その満足感や達成感なりを持って、

また翌日の仕事に戻っていく・・・。

 

 まあ、そういう読書も一概(いちがい)に否定されるべきではないが、

これではその読書は、読み手の内面的経験はまったくなっていない。」

 

 

「あえて書き手に引き寄せて言うなら、テーマは書く前に考え

ておくようなことではなく、書く過程で『そういえば自分はこんな

ことも考えているんだな』と考えるくらいの程度で、それはつまり、

書きながらいろいろなことを考えるというくらいの意味でもある。

 

テーマのようなものを事前に設定してしまったら、作品の持つ自在な

(融通無碍ゆうずうむげな)運動を妨げることになってしまう。

 

作品には作品固有の運動がある。言葉を換(か)えれば、それ固有の

運動を持ったときに、いま書かれているものが《作品》となる。」

 

 

「この本では『小説とは何か?』について、かなりしつこく考えて

いくつもりだ。なぜなら、『小説を書く』とは、『小説とは何か?』を

つねに考えながら進行していくべきものだからだが、ここで『小説とは

何か?』について、最初の答えが見つかったはずだ。

 

それは、小説とは、《個》が立ち上がるものだということだ。べつな

言い方をすれば、社会化されている人間の中にある《社会化されて

いない部分》をいかに言語化するかということで、その社会化されて

いない部分は、普段の生活ではマイナスになたったり、他人から

怪訝(けげん)な顔をされたりするもののことだけど、小説には絶対に

欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ。」

 

 

【B】すぐれた小説の条件、その1

 

「ストーリーとは何か?小説のストーリーを考えてみる前に、

『おもしろい小説』とは何かを考えてみる。まず、私にとって

『おもしろい小説』とは、最初の一行を読んだら、次の一行も読みたく

なり、その行を読んだらまた次の行も読みたくなり…という風に

つながっていって、気がついたときには最後の行まで読んでいた。

−−そんな小説のことだ。(中略)

 

さて、そこでストーリーなのだが、ストーリーとは、読者の興味を

最後までつなぎとめておくための《ひとつの方法》なのだと思う。

ただ、そういうストーリーをつくるのはものすごく難しい。理由の

ひとつは、20世紀後半から21世紀へと至った今、輪郭のはっきり

したストーリーというのは出尽くしてしまっているということだ。

(中略)

 

輪郭のはっきりしたストーリーはダイレクトに心に飛び込んでくる。

そのメカニズムがどうなっているかの説明は評論家か心理学者に

任せるとして、輪郭がはっきりしているということは、口頭で伝える

ことができるということで、人物造形とか細部の出来不出来なんか

問題にならない。私は、ストーリーとは本来そういうものだと思って

いるが、はたして今、こうした輪郭のはっきりしたストーリーが

書けるかどうか。

 

あらゆる物語のパターンは、きっと旧約聖書の中あり、その後書かれた

物語は多かれ少なかれ、そのバリアント(変奏)だろう。《読者をアッと

いわせるような波乱万丈のストーリー》という惹(ひ)き文句の長編

小説があったとしても、プロットごとに見ていけば、すべて既成の

組み合わせというものがほとんどのはずだ。(中略)

 

人がストーリーの展開をおもしろいと感じられる理由は、展開が予想の

範囲だからだ。その範囲をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想

以前の『???』しか出てこず、面白いどころか『意外だ』と感心する

ことすらできなくなる。(中略)

 

ストーリー・テラーは、結末をまず決めて、それに向かって話を作っていく。

(中略)

しかし、なぜ、それが小説でないのか?まず私は『小説とは書きながら

自分自身が成長するもの』あるいは『書く前の自分より書いた後の自分の

ほうが成長できるもの』だということを言ってきた。結末が書く前から

決まっていたら、書きながら考えて成長することができない。

 

もちろん結末が決めてあっても、(1)資料を調べたり、(2)細部の

人の心の動きを考えたりするのだから、それなりに成長はするけれど、

それは小説を書くという行為そのものによる成長ではなくて、書くと

いう行為の周辺で行う作業による成長でしかない。とくに(2)の

細部での人の心の動きは、動きといっても行き着く先が決められている

動きでしかないものだから、本来のダイナミズムを欠いた予定調和的な

動きにならざるをえない。」

 

「小説と言うとストーリーという抜きがたい思い込みがある理由は、

小説の多様性を受け入れることが出来ないからだと思う。(中略)

 

 音楽や絵画のことを考えてみてほしい。(中略)

 

 たとえば絵には、ダ・ヴィンチ、ゴヤ、ブリューゲル、モネ、

ピカソ、(中略)一般の人たちは『いい・悪い』ではなく、まず

その絵の感じが好きか嫌いか、受け入れやすいか受け入れにくいか

でその絵に接していく。

 

 音楽だって同じだ。ベートーヴェンとドヴュッシーは『いい・悪い』

ではなく、好きか嫌いかだ。ジャズもあり、ロックもあり、民俗音楽

もある。(中略)

 

しかし、小説になるとみんなその多様性や固有性を理解しない。なぜか?

 

 絵がキャンバスに描(えが)かれた《物質》であり、音楽が楽器

によって鳴らされた音という《物質》であるのに対して、小説は

《抽象》であるからだ。

 

 物質は感覚によって享受されるけど、小説=文字は感覚を

経(へ)ないでいきなり抽象によって受容される。私が強調する

『風景』も、前節で書いた流れの緩急も、すべていったん抽象と

して入力された後の再出力(再イメージ化)のようなものだ。

 

 つまり、小説は物質性がなく、いきなり抽象だから、理解するために

脳にとってかなり大きな負担となる。その負担ゆえに、小説家もまた

画家や音楽家と同じように多様な背景を持ち、多様な身体を持っていて、

それによって書いているのだということを理解しそびれる。ないし、

そこまで気が回らない、ということではなかと思う。

 

 日本の文学史を見ても、私小説が流行するかと思えば、次に

プロレタリア文学が流行(やは)り、戦後になると実存主義になって

・・・と、知性がおかすとは思えない奇妙に大きな振幅があるが、

それもまた知性が知性であるがゆえに、大きな負担をつねにかかえて

《抽象》を相手にしているからではないかと考えれば納得できる。

 

 ま、それはともかく、小説の多様性をごく自然なことだと感じて

いる人は、身の回りだけでなく文芸評論家の中にもほとんどいないが

(いや、むしろ、評論家のほうこそいないのかも知れないが)、

大事なことは多様性であり、ストーリーは最初の一行から最後の一行

へと至(いた)る推進力の《ひとつ》であり、小説の推進力はいろいろ

あることは、つねに考えていてほしい。」

 

 

「小説のひとつの理想は、最初に解決不可能と思える問題(ないし対立)

を提示して、それを解(と)くことだ。

 

作者にとって『小説を書くこと』とは『問題を解く』こととイコールに

なる。当然、読者にとっても『小説を書くこと』は『問題を解く』ことと

イコールになる。(中略)

 

数学の文章問題を思い出してほしいのだが、もともと問題を解くという

ことは、答えに至るプロセスを辿(たど)ることで、ただ『8』とか

『25』とかいう答えを知ることではない。数学の文章問題で、ただ

ポコンと『8です』と言う人のことを問題の解き方がわかっっているとは

誰も言わない。哲学だってそうで、2章でも書いたように、

哲学書は私たちが日常雑に使っている概念や論理の組み立て方を1つ

ひとつ検証して、再定義しながら結論(この場合固有の世界像と言うべき

だろう)に至るようにできていて、『世界とは××である』『人間の

本質は○○である』というセンテンスだけをお題目のように暗記しても

意味がない。

 

そして小説も同じことで、読者が日常使っている言葉や美意識と完全に

重なり合わないものを積み重ねていく、そのプロセスの中にしか答えはない。

が、しかし、あいにくそういう小説は理想と言いつつ例外で、私は自分の

『カンバセイション・ピース』をそういうつもりで書いたのだが、他に

思いつく小説といったら、ドストエフスキーの小説くらいだろうか

(ドストエフスキーがいれば十分だが)。」

 

◇ストーリーテラー【storyteller】= 話のじょうずな人。特に、

筋の運びのおもしろさで読者をひきつける小説家。

 

 

【C】すぐれた小説の条件、その2

 

「ここで2つ目の小説の条件が出てくる。つまり、小説は《細部》が

全体を動かすという独特の力学を持っている表現形態なのだ。この本で

人物と風景についての章をストーリーより先に持ってきてあるのは、

細部と全体とのこの関係があるからで、小説においては細部はふつう

いわれる『細部にすぎない』ものや『たかが細部』にとどまるもの

ではない。小説は、細部こそが全体を決めていくのだ。

 

これもまた、4章で引用したベンヤミンの『物語作者』の中で

言われていることだが、物語とは夜、車座にすわった人たちによって

口承で語られた歴史を持っている。つまり、物語とは、耳で聞くことを

本質にしている。

 

それに対して小説とは、1人で目で読むものとして発達してきた。一人

ひとりの孤独な時間の中で、ゆっくり目で読むことによって、文字として

書かれた複雑な空間的叙述・時間的叙述が読み手の心の中に何重もの層と

して積み上げられたり、内側に折り畳まれたりするプロセスそのものが

小説という表現形態なのだ。

 

読み終わった後に、『これこれという人がいて、こういうことが起きて、

最後にこうなった』という風に筋をまとめられることが小説(小説を

読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説と

いうのは読んでいる時間の中にしかない。読みながら、いろいろなことを

感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したり

するものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、

読み手の実人生のいろいろなことと響き合うのが小説で、そのために作者は

細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えること

よりもぜったいに価値を持つ。

 

技術なんて何冊もの小説を読んでいれば誰でもそこそこ身につくもので、

小説の技術なんて『そこそこ』で十分なのだが、小説というもののイメージ、

そして、つまるところ『小説とは、どうしてこういう形をしているか』という

問いかけを忘れてしまったら、形だけは小説だけど、内側で運動するものが

何もないものしか生まれない。くり返すが、遠回りと見えることだけが

小説に至る道なのだ。」

 

 

◇保坂和志氏の公式サイト

http://www18.jp-net.ne.jp/rb/0001/gabun.html

 

ーー目次ーー

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

7.村上春樹氏の文学観。村上氏は「フランツ・カフカ賞」の受賞も

  決まり、ノーベル文学賞も最有力候補とか。

8.『文学者の覚悟』を説く、大評論家、人生の達人の、小林秀雄。

9.小説のリアリティについて、三島由紀夫氏と中村光夫氏の対談。   

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

ーー本文ーー

 

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

 

「私の考えによれば、文学の作用はつねに反逆的、闘争的、破壊的

である。文学の精神は現実へ反発する時代創造的な意思であると

述べたが、時代創造的な意思は、文学においては反逆的、破壊的な

形に於いてあらわれる。

 

進化の過程において個人はつねに反社会的、すなわち破壊的闘争的な

形を示す。建設はつねに社会的、科学的なものである。文学の破壊作用は

破壊によって内包の増大を促し、建設のほうが的役割を務めることに

よって足りる。

 

 文学は常に問題を提出する。文学そのものに解決はない。なぜなら

人間の血と肉は歴史の終局に於いて解決すべきものであって、概念の中に

解決すべきものでない。」

 

以上は、坂口安吾・著の『新らしき文学』より。

 

「散文に二種類あると考えているが、一を小説、他を作文とかりに

言っておく。小説としての散文の上手下手は、所謂(いわゆる)文章

ーー名文悪文と俗に言われるあのこととは凡(およ)そ関係ない。所謂

(いわゆる)名文と呼ばれるものは、右と書くべきとき場合に、言葉の

調子で左と書いたりすることが多いもので、これでは小説にならない。

漢文日本にはこの弊害が多い。

 

小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅(しんせん)等に

よって文章が決定づけられ、同時に評価もされるべきものであって、

文章の体裁が纏(まと)まっていたり調子が揃(そろ)っていたところで、

小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、

書くべき事柄を完膚(かんぷ=徹底的に)なく『書きまくる』べき性質の

ものである。

 

私は、作者の観察の深浅(しんせん)、態度等(など)が小説としての

価値を決定するものだと述べたが、部分部分の観察が的確であっても、

小説全体の価値はまた別であろうと思う。

 

小説は、人間が自らの癒(いや)しがたい永遠なる『宿命』に反抗、

あるいは屈服して、(永遠なる宿命の前では屈服も反抗も同じことだーー)

弄(もてあそ)ぶところの薬品であり玩具(がんぐ、おもちゃ)であると、

私は考えている。小説の母体は、我々の如何(いかん)ともなしがたい

喜劇悲劇を持って永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。

 

笑いたくない笑いもあり、泣きたくもない泪(=涙)もある。奇天烈

(=奇妙きてれつ)な人の世では、死も喜びとなるではないか。

知らないことだって、うっかりすると知っているかもしれないし、よく

知っていても、知らないことだってあろうよ。小説はこのような奇奇怪怪

な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向かっての、広大無辺、

「ストーリーとは何か?小説のストーリーを考えてみる前に、

『おもしろい小説』とは何かを考えてみる。まず、私にとって

『おもしろい小説』とは、最初の一行を読んだら、次の一行も読みたく

なり、その行を読んだらまた次の行も読みたくなり…という風に

つながっていって、気がついたときには最後の行まで読んでいた。

−−そんな小説のことだ。(中略)

 

さて、そこでストーリーなのだが、ストーリーとは、読者の興味を

最後までつなぎとめておくための《ひとつの方法》なのだと思う。

ただ、そういうストーリーをつくるのはものすごく難しい。理由の

ひとつは、20世紀後半から21世紀へと至った今、輪郭のはっきり

したストーリーというのは出尽くしてしまっているということだ。

(中略)

 

輪郭のはっきりしたストーリーはダイレクトに心に飛び込んでくる。

そのメカニズムがどうなっているかの説明は評論家か心理学者に

任せるとして、輪郭がはっきりしているということは、口頭で伝える

ことができるということで、人物造形とか細部の出来不出来なんか

問題にならない。私は、ストーリーとは本来そういうものだと思って

いるが、はたして今、こうした輪郭のはっきりしたストーリーが

書けるかどうか。

 

あらゆる物語のパターンは、きっと旧約聖書の中あり、その後書かれた

物語は多かれ少なかれ、そのバリアント(変奏)だろう。《読者をアッと

いわせるような波乱万丈のストーリー》という惹(ひ)き文句の長編

小説があったとしても、プロットごとに見ていけば、すべて既成の

組み合わせというものがほとんどのはずだ。(中略)

 

人がストーリーの展開をおもしろいと感じられる理由は、展開が予想の

範囲だからだ。その範囲をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想

以前の『???』しか出てこず、面白いどころか『意外だ』と感心する

ことすらできなくなる。(中略)

 

ストーリー・テラーは、結末をまず決めて、それに向かって話を作っていく。

(中略)

しかし、なぜ、それが小説でないのか?まず私は『小説とは書きながら

自分自身が成長するもの』あるいは『書く前の自分より書いた後の自分の

ほうが成長できるもの』だということを言ってきた。結末が書く前から

決まっていたら、書きながら考えて成長することができない。

 

もちろん結末が決めてあっても、(1)資料を調べたり、(2)細部の

人の心の動きを考えたりするのだから、それなりに成長はするけれど、

それは小説を書くという行為そのものによる成長ではなくて、書くと

いう行為の周辺で行う作業による成長でしかない。とくに(2)の

細部での人の心の動きは、動きといっても行き着く先が決められている

動きでしかないものだから、本来のダイナミズムを欠いた予定調和的な

動きにならざるをえない。」

 

「小説と言うとストーリーという抜きがたい思い込みがある理由は、

小説の多様性を受け入れることが出来ないからだと思う。(中略)

 

 音楽や絵画のことを考えてみてほしい。(中略)

 

 たとえば絵には、ダ・ヴィンチ、ゴヤ、ブリューゲル、モネ、

ピカソ、(中略)一般の人たちは『いい・悪い』ではなく、まず

その絵の感じが好きか嫌いか、受け入れやすいか受け入れにくいか

でその絵に接していく。

 

 音楽だって同じだ。ベートーヴェンとドヴュッシーは『いい・悪い』

ではなく、好きか嫌いかだ。ジャズもあり、ロックもあり、民俗音楽

もある。(中略)

 

しかし、小説になるとみんなその多様性や固有性を理解しない。なぜか?

 

 絵がキャンバスに描(えが)かれた《物質》であり、音楽が楽器

によって鳴らされた音という《物質》であるのに対して、小説は

《抽象》であるからだ。

 

 物質は感覚によって享受されるけど、小説=文字は感覚を

経(へ)ないでいきなり抽象によって受容される。私が強調する

『風景』も、前節で書いた流れの緩急も、すべていったん抽象と

して入力された後の再出力(再イメージ化)のようなものだ。

 

 つまり、小説は物質性がなく、いきなり抽象だから、理解するために

脳にとってかなり大きな負担となる。その負担ゆえに、小説家もまた

画家や音楽家と同じように多様な背景を持ち、多様な身体を持っていて、

それによって書いているのだということを理解しそびれる。ないし、

そこまで気が回らない、ということではなかと思う。

 

 日本の文学史を見ても、私小説が流行するかと思えば、次に

プロレタリア文学が流行(やは)り、戦後になると実存主義になって

・・・と、知性がおかすとは思えない奇妙に大きな振幅があるが、

それもまた知性が知性であるがゆえに、大きな負担をつねにかかえて

《抽象》を相手にしているからではないかと考えれば納得できる。

 

 ま、それはともかく、小説の多様性をごく自然なことだと感じて

いる人は、身の回りだけでなく文芸評論家の中にもほとんどいないが

(いや、むしろ、評論家のほうこそいないのかも知れないが)、

大事なことは多様性であり、ストーリーは最初の一行から最後の一行

へと至(いた)る推進力の《ひとつ》であり、小説の推進力はいろいろ

あることは、つねに考えていてほしい。」

 

 

「小説のひとつの理想は、最初に解決不可能と思える問題(ないし対立)

を提示して、それを解(と)くことだ。

 

作者にとって『小説を書くこと』とは『問題を解く』こととイコールに

なる。当然、読者にとっても『小説を書くこと』は『問題を解く』ことと

イコールになる。(中略)

 

数学の文章問題を思い出してほしいのだが、もともと問題を解くという

ことは、答えに至るプロセスを辿(たど)ることで、ただ『8』とか

『25』とかいう答えを知ることではない。数学の文章問題で、ただ

ポコンと『8です』と言う人のことを問題の解き方がわかっっているとは

誰も言わない。哲学だってそうで、2章でも書いたように、

哲学書は私たちが日常雑に使っている概念や論理の組み立て方を1つ

ひとつ検証して、再定義しながら結論(この場合固有の世界像と言うべき

だろう)に至るようにできていて、『世界とは××である』『人間の

本質は○○である』というセンテンスだけをお題目のように暗記しても

意味がない。

 

そして小説も同じことで、読者が日常使っている言葉や美意識と完全に

重なり合わないものを積み重ねていく、そのプロセスの中にしか答えはない。

が、しかし、あいにくそういう小説は理想と言いつつ例外で、私は自分の

『カンバセイション・ピース』をそういうつもりで書いたのだが、他に

思いつく小説といったら、ドストエフスキーの小説くらいだろうか

(ドストエフスキーがいれば十分だが)。」

 

◇ストーリーテラー【storyteller】= 話のじょうずな人。特に、

筋の運びのおもしろさで読者をひきつける小説家。

 

 

【C】すぐれた小説の条件、その2

 

「ここで2つ目の小説の条件が出てくる。つまり、小説は《細部》が

全体を動かすという独特の力学を持っている表現形態なのだ。この本で

人物と風景についての章をストーリーより先に持ってきてあるのは、

細部と全体とのこの関係があるからで、小説においては細部はふつう

いわれる『細部にすぎない』ものや『たかが細部』にとどまるもの

ではない。小説は、細部こそが全体を決めていくのだ。

 

これもまた、4章で引用したベンヤミンの『物語作者』の中で

言われていることだが、物語とは夜、車座にすわった人たちによって

口承で語られた歴史を持っている。つまり、物語とは、耳で聞くことを

本質にしている。

 

それに対して小説とは、1人で目で読むものとして発達してきた。一人

ひとりの孤独な時間の中で、ゆっくり目で読むことによって、文字として

書かれた複雑な空間的叙述・時間的叙述が読み手の心の中に何重もの層と

して積み上げられたり、内側に折り畳まれたりするプロセスそのものが

小説という表現形態なのだ。

 

読み終わった後に、『これこれという人がいて、こういうことが起きて、

最後にこうなった』という風に筋をまとめられることが小説(小説を

読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説と

いうのは読んでいる時間の中にしかない。読みながら、いろいろなことを

感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したり

するものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、

読み手の実人生のいろいろなことと響き合うのが小説で、そのために作者は

細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えること

よりもぜったいに価値を持つ。

 

技術なんて何冊もの小説を読んでいれば誰でもそこそこ身につくもので、

小説の技術なんて『そこそこ』で十分なのだが、小説というもののイメージ、

そして、つまるところ『小説とは、どうしてこういう形をしているか』という

問いかけを忘れてしまったら、形だけは小説だけど、内側で運動するものが

何もないものしか生まれない。くり返すが、遠回りと見えることだけが

小説に至る道なのだ。」

 

 

◇保坂和志氏の公式サイト

http://www18.jp-net.ne.jp/rb/0001/gabun.html

 

ーー目次ーー

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

7.村上春樹氏の文学観。村上氏は「フランツ・カフカ賞」の受賞も

  決まり、ノーベル文学賞も最有力候補とか。

8.『文学者の覚悟』を説く、大評論家、人生の達人の、小林秀雄。

9.小説のリアリティについて、三島由紀夫氏と中村光夫氏の対談。   

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

ーー本文ーー

 

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

 

「私の考えによれば、文学の作用はつねに反逆的、闘争的、破壊的

である。文学の精神は現実へ反発する時代創造的な意思であると

述べたが、時代創造的な意思は、文学においては反逆的、破壊的な

形に於いてあらわれる。

 

進化の過程において個人はつねに反社会的、すなわち破壊的闘争的な

形を示す。建設はつねに社会的、科学的なものである。文学の破壊作用は

破壊によって内包の増大を促し、建設のほうが的役割を務めることに

よって足りる。

 

 文学は常に問題を提出する。文学そのものに解決はない。なぜなら

人間の血と肉は歴史の終局に於いて解決すべきものであって、概念の中に

解決すべきものでない。」

 

以上は、坂口安吾・著の『新らしき文学』より。

 

「散文に二種類あると考えているが、一を小説、他を作文とかりに

言っておく。小説としての散文の上手下手は、所謂(いわゆる)文章

ーー名文悪文と俗に言われるあのこととは凡(およ)そ関係ない。所謂

(いわゆる)名文と呼ばれるものは、右と書くべきとき場合に、言葉の

調子で左と書いたりすることが多いもので、これでは小説にならない。

漢文日本にはこの弊害が多い。

 

小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅(しんせん)等に

よって文章が決定づけられ、同時に評価もされるべきものであって、

文章の体裁が纏(まと)まっていたり調子が揃(そろ)っていたところで、

小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、

書くべき事柄を完膚(かんぷ=徹底的に)なく『書きまくる』べき性質の

ものである。

 

私は、作者の観察の深浅(しんせん)、態度等(など)が小説としての

価値を決定するものだと述べたが、部分部分の観察が的確であっても、

小説全体の価値はまた別であろうと思う。

 

小説は、人間が自らの癒(いや)しがたい永遠なる『宿命』に反抗、

あるいは屈服して、(永遠なる宿命の前では屈服も反抗も同じことだーー)

弄(もてあそ)ぶところの薬品であり玩具(がんぐ、おもちゃ)であると、

私は考えている。小説の母体は、我々の如何(いかん)ともなしがたい

喜劇悲劇を持って永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。

 

笑いたくない笑いもあり、泣きたくもない泪(=涙)もある。奇天烈

(=奇妙きてれつ)な人の世では、死も喜びとなるではないか。

知らないことだって、うっかりすると知っているかもしれないし、よく

知っていても、知らないことだってあろうよ。小説はこのような奇奇怪怪

な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向かっての、広大無辺、

「ストーリーとは何か?小説のストーリーを考えてみる前に、

『おもしろい小説』とは何かを考えてみる。まず、私にとって

『おもしろい小説』とは、最初の一行を読んだら、次の一行も読みたく

なり、その行を読んだらまた次の行も読みたくなり…という風に

つながっていって、気がついたときには最後の行まで読んでいた。

−−そんな小説のことだ。(中略)

 

さて、そこでストーリーなのだが、ストーリーとは、読者の興味を

最後までつなぎとめておくための《ひとつの方法》なのだと思う。

ただ、そういうストーリーをつくるのはものすごく難しい。理由の

ひとつは、20世紀後半から21世紀へと至った今、輪郭のはっきり

したストーリーというのは出尽くしてしまっているということだ。

(中略)

 

輪郭のはっきりしたストーリーはダイレクトに心に飛び込んでくる。

そのメカニズムがどうなっているかの説明は評論家か心理学者に

任せるとして、輪郭がはっきりしているということは、口頭で伝える

ことができるということで、人物造形とか細部の出来不出来なんか

問題にならない。私は、ストーリーとは本来そういうものだと思って

いるが、はたして今、こうした輪郭のはっきりしたストーリーが

書けるかどうか。

 

あらゆる物語のパターンは、きっと旧約聖書の中あり、その後書かれた

物語は多かれ少なかれ、そのバリアント(変奏)だろう。《読者をアッと

いわせるような波乱万丈のストーリー》という惹(ひ)き文句の長編

小説があったとしても、プロットごとに見ていけば、すべて既成の

組み合わせというものがほとんどのはずだ。(中略)

 

人がストーリーの展開をおもしろいと感じられる理由は、展開が予想の

範囲だからだ。その範囲をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想

以前の『???』しか出てこず、面白いどころか『意外だ』と感心する

ことすらできなくなる。(中略)

 

ストーリー・テラーは、結末をまず決めて、それに向かって話を作っていく。

(中略)

しかし、なぜ、それが小説でないのか?まず私は『小説とは書きながら

自分自身が成長するもの』あるいは『書く前の自分より書いた後の自分の

ほうが成長できるもの』だということを言ってきた。結末が書く前から

決まっていたら、書きながら考えて成長することができない。

 

もちろん結末が決めてあっても、(1)資料を調べたり、(2)細部の

人の心の動きを考えたりするのだから、それなりに成長はするけれど、

それは小説を書くという行為そのものによる成長ではなくて、書くと

いう行為の周辺で行う作業による成長でしかない。とくに(2)の

細部での人の心の動きは、動きといっても行き着く先が決められている

動きでしかないものだから、本来のダイナミズムを欠いた予定調和的な

動きにならざるをえない。」

 

「小説と言うとストーリーという抜きがたい思い込みがある理由は、

小説の多様性を受け入れることが出来ないからだと思う。(中略)

 

 音楽や絵画のことを考えてみてほしい。(中略)

 

 たとえば絵には、ダ・ヴィンチ、ゴヤ、ブリューゲル、モネ、

ピカソ、(中略)一般の人たちは『いい・悪い』ではなく、まず

その絵の感じが好きか嫌いか、受け入れやすいか受け入れにくいか

でその絵に接していく。

 

 音楽だって同じだ。ベートーヴェンとドヴュッシーは『いい・悪い』

ではなく、好きか嫌いかだ。ジャズもあり、ロックもあり、民俗音楽

もある。(中略)

 

しかし、小説になるとみんなその多様性や固有性を理解しない。なぜか?

 

 絵がキャンバスに描(えが)かれた《物質》であり、音楽が楽器

によって鳴らされた音という《物質》であるのに対して、小説は

《抽象》であるからだ。

 

 物質は感覚によって享受されるけど、小説=文字は感覚を

経(へ)ないでいきなり抽象によって受容される。私が強調する

『風景』も、前節で書いた流れの緩急も、すべていったん抽象と

して入力された後の再出力(再イメージ化)のようなものだ。

 

 つまり、小説は物質性がなく、いきなり抽象だから、理解するために

脳にとってかなり大きな負担となる。その負担ゆえに、小説家もまた

画家や音楽家と同じように多様な背景を持ち、多様な身体を持っていて、

それによって書いているのだということを理解しそびれる。ないし、

そこまで気が回らない、ということではなかと思う。

 

 日本の文学史を見ても、私小説が流行するかと思えば、次に

プロレタリア文学が流行(やは)り、戦後になると実存主義になって

・・・と、知性がおかすとは思えない奇妙に大きな振幅があるが、

それもまた知性が知性であるがゆえに、大きな負担をつねにかかえて

《抽象》を相手にしているからではないかと考えれば納得できる。

 

 ま、それはともかく、小説の多様性をごく自然なことだと感じて

いる人は、身の回りだけでなく文芸評論家の中にもほとんどいないが

(いや、むしろ、評論家のほうこそいないのかも知れないが)、

大事なことは多様性であり、ストーリーは最初の一行から最後の一行

へと至(いた)る推進力の《ひとつ》であり、小説の推進力はいろいろ

あることは、つねに考えていてほしい。」

 

 

「小説のひとつの理想は、最初に解決不可能と思える問題(ないし対立)

を提示して、それを解(と)くことだ。

 

作者にとって『小説を書くこと』とは『問題を解く』こととイコールに

なる。当然、読者にとっても『小説を書くこと』は『問題を解く』ことと

イコールになる。(中略)

 

数学の文章問題を思い出してほしいのだが、もともと問題を解くという

ことは、答えに至るプロセスを辿(たど)ることで、ただ『8』とか

『25』とかいう答えを知ることではない。数学の文章問題で、ただ

ポコンと『8です』と言う人のことを問題の解き方がわかっっているとは

誰も言わない。哲学だってそうで、2章でも書いたように、

哲学書は私たちが日常雑に使っている概念や論理の組み立て方を1つ

ひとつ検証して、再定義しながら結論(この場合固有の世界像と言うべき

だろう)に至るようにできていて、『世界とは××である』『人間の

本質は○○である』というセンテンスだけをお題目のように暗記しても

意味がない。

 

そして小説も同じことで、読者が日常使っている言葉や美意識と完全に

重なり合わないものを積み重ねていく、そのプロセスの中にしか答えはない。

が、しかし、あいにくそういう小説は理想と言いつつ例外で、私は自分の

『カンバセイション・ピース』をそういうつもりで書いたのだが、他に

思いつく小説といったら、ドストエフスキーの小説くらいだろうか

(ドストエフスキーがいれば十分だが)。」

 

◇ストーリーテラー【storyteller】= 話のじょうずな人。特に、

筋の運びのおもしろさで読者をひきつける小説家。

 

 

【C】すぐれた小説の条件、その2

 

「ここで2つ目の小説の条件が出てくる。つまり、小説は《細部》が

全体を動かすという独特の力学を持っている表現形態なのだ。この本で

人物と風景についての章をストーリーより先に持ってきてあるのは、

細部と全体とのこの関係があるからで、小説においては細部はふつう

いわれる『細部にすぎない』ものや『たかが細部』にとどまるもの

ではない。小説は、細部こそが全体を決めていくのだ。

 

これもまた、4章で引用したベンヤミンの『物語作者』の中で

言われていることだが、物語とは夜、車座にすわった人たちによって

口承で語られた歴史を持っている。つまり、物語とは、耳で聞くことを

本質にしている。

 

それに対して小説とは、1人で目で読むものとして発達してきた。一人

ひとりの孤独な時間の中で、ゆっくり目で読むことによって、文字として

書かれた複雑な空間的叙述・時間的叙述が読み手の心の中に何重もの層と

して積み上げられたり、内側に折り畳まれたりするプロセスそのものが

小説という表現形態なのだ。

 

読み終わった後に、『これこれという人がいて、こういうことが起きて、

最後にこうなった』という風に筋をまとめられることが小説(小説を

読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説と

いうのは読んでいる時間の中にしかない。読みながら、いろいろなことを

感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したり

するものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、

読み手の実人生のいろいろなことと響き合うのが小説で、そのために作者は

細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えること

よりもぜったいに価値を持つ。

 

技術なんて何冊もの小説を読んでいれば誰でもそこそこ身につくもので、

小説の技術なんて『そこそこ』で十分なのだが、小説というもののイメージ、

そして、つまるところ『小説とは、どうしてこういう形をしているか』という

問いかけを忘れてしまったら、形だけは小説だけど、内側で運動するものが

何もないものしか生まれない。くり返すが、遠回りと見えることだけが

小説に至る道なのだ。」

 

 

◇保坂和志氏の公式サイト

http://www18.jp-net.ne.jp/rb/0001/gabun.html

 

ーー目次ーー

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

7.村上春樹氏の文学観。村上氏は「フランツ・カフカ賞」の受賞も

  決まり、ノーベル文学賞も最有力候補とか。

8.『文学者の覚悟』を説く、大評論家、人生の達人の、小林秀雄。

9.小説のリアリティについて、三島由紀夫氏と中村光夫氏の対談。   

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

ーー本文ーー

 

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

 

「私の考えによれば、文学の作用はつねに反逆的、闘争的、破壊的

である。文学の精神は現実へ反発する時代創造的な意思であると

述べたが、時代創造的な意思は、文学においては反逆的、破壊的な

形に於いてあらわれる。

 

進化の過程において個人はつねに反社会的、すなわち破壊的闘争的な

形を示す。建設はつねに社会的、科学的なものである。文学の破壊作用は

破壊によって内包の増大を促し、建設のほうが的役割を務めることに

よって足りる。

 

 文学は常に問題を提出する。文学そのものに解決はない。なぜなら

人間の血と肉は歴史の終局に於いて解決すべきものであって、概念の中に

解決すべきものでない。」

 

以上は、坂口安吾・著の『新らしき文学』より。

 

「散文に二種類あると考えているが、一を小説、他を作文とかりに

言っておく。小説としての散文の上手下手は、所謂(いわゆる)文章

ーー名文悪文と俗に言われるあのこととは凡(およ)そ関係ない。所謂

(いわゆる)名文と呼ばれるものは、右と書くべきとき場合に、言葉の

調子で左と書いたりすることが多いもので、これでは小説にならない。

漢文日本にはこの弊害が多い。

 

小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅(しんせん)等に

よって文章が決定づけられ、同時に評価もされるべきものであって、

文章の体裁が纏(まと)まっていたり調子が揃(そろ)っていたところで、

小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、

書くべき事柄を完膚(かんぷ=徹底的に)なく『書きまくる』べき性質の

ものである。

 

私は、作者の観察の深浅(しんせん)、態度等(など)が小説としての

価値を決定するものだと述べたが、部分部分の観察が的確であっても、

小説全体の価値はまた別であろうと思う。

 

小説は、人間が自らの癒(いや)しがたい永遠なる『宿命』に反抗、

あるいは屈服して、(永遠なる宿命の前では屈服も反抗も同じことだーー)

弄(もてあそ)ぶところの薬品であり玩具(がんぐ、おもちゃ)であると、

私は考えている。小説の母体は、我々の如何(いかん)ともなしがたい

喜劇悲劇を持って永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。

 

笑いたくない笑いもあり、泣きたくもない泪(=涙)もある。奇天烈

(=奇妙きてれつ)な人の世では、死も喜びとなるではないか。

知らないことだって、うっかりすると知っているかもしれないし、よく

知っていても、知らないことだってあろうよ。小説はこのような奇奇怪怪

な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向かっての、広大無辺、

(南総里見八犬伝)が実際にいるとは思わないけれども、読むと、

いろいろ 自分の中にある正義とか美意識とか、そういものが満足させ

られる。それでいいというふうに思っていたわけですね。だけどいわゆる

近代になってから、それがどうも分明でないというふうに思われてきた

ことが 小説に非常に 災いしているのじゃないかね。

 

(三島)

そうですね。

 

(中村)

平野謙は、自分は非常に善意で誠実だからそういうふうに考えるし、

あの人はそういう考えで一生やる気だから、それには何か動かしがたい

気があるけれども、あれではやっぱり小説を一生楽しむことはできない

のじゃないか。

 

(三島)

でしょうね。 

 

ーーー

偶然というか 2003年 8月30日の日経新聞に、『江戸小説、壮大ロマン、

今に継承。《八犬伝》にみる再評価の動き』という特集があった。

 

「近代リアリズム小説が行き詰まる中で、現代文学の活力減として『近代

以前の遺産』に目が向けられている」と。

 

 三島、中村、両氏のこの対談には、さすがの慧眼や洞察力を感じる。

 

また、ちなみに、三島氏は文学観として、下記のような話をしている。

 

(三島)

「谷崎さんの『卍』には 確かに そういう虚無へ引きずっていく力がある。

川端さんの『眠れる美女』にもあります。そういうのが僕は文学だと

思うんですね。虚無へ引きずってゆかないものは必ず贋(にせ)ものだと

思う。どこからきた確信か知れないけれども、そう思う。」

 

 この「虚無へ引きずっていく」というような三島さんの文学観が、

僕には以前から、なんとなく共感できないでいた。しかし、人生の

おそろしさを描くのも、人生のすばらしさを描くのも、ともに文学の

優れた仕事と思うようになってきた。

 

「崖(がけ)っぷちに、連れて行ってくれる文学が、人生の怖さを教えて

くれる文学が、良い文学だ」とも、何かの著作で三島氏はいっていた。

 

私個人としては、人生の、不条理、奇怪さ、怖さ、など、毎日のニュース

でも見てれば、痛いほどよくわかるわけで、文学や芸術に求めるものは、

どちらかといえば、陽気でユーモアのある、楽しく元気の出るものなので

ある。読んだことはないけど『八犬伝』の おもしろさ 良さにはきっと

共感できると思う。   

 

◆南総里見八犬伝は、楽しい名作だそうだ。岩波文庫や新潮社にある。

 

 

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

      

 リアリティについての明確な定義した養老氏のこの発言以上の、

優れたリアリティの定義を私(Z)はほかに知りません。

 

 2003年の流行語大賞の『バカの壁』の著者 養老孟司(ようろう

たけし)氏の、宮崎アニメについてのお話が、アート(芸術)論と

しても、芸術文化の活性化の方向を決定し予見させるほどに優れている

と、私には思える。

 

(聞き手)

「私たちは 夢の中で現実では想像つかないようなスケール感やスピード

感を体験する

ことがありますが、まさに宮崎さんの世界には 自分がそうやって現実

から解き放たれた

ときの感覚を思い出させてくれるような ところがあるように思います」

 

と、こんな聞き手に対して、養老さんは語る。

 

(養老氏)

「そうですね。しかも まったく無理がない。作り物という感じが 全く

しないんです。

でも僕はそれが当たり前だと思います。宮崎さん流にいえば『あって

いいんじゃないかよ』

って。本来それをリアリティというんです。だから当たり前でないと思う

ならば、それはアートが外(はず)れすぎたんですね。

 

 リアリティについて 古い言葉でいえば、真善美なんです。より本当で

より正しくてより美しい。

それがリアリティの意味です。第1、リアル(real)は 現実という意味

ですから、その現実(real)を

抽象名詞にした リアリティ(reality)って どういう意味なの?って、

僕は 学生に よく聞くんですよ。

現実という言葉の 抽象名詞の リアリティって、一体なんでしょうって

(笑)そんなのは

おかしな名詞であって、実は リアリティを 現実性とか そういうふうに

訳したから おかしくなってしまうわけです。

具体的に訳すなら、

真善美と訳したほうがいい。人は本当のもの、正しいもの、美しいものに

惹(ひ)きつけられる。

それをリアリティというんです。だから 現実(=リアル=real)に 対照

する英語は

アクチュアリティ(actually)、日本語では 日常性ということになるん

ですが、

そこのところをなかなか 気づかないで混同しています。

 

 そうなってしまうのは 現代が 素朴実在論( 外界が 意識から独立に

存在している

と見る 日常実践の立場 )が 非常に強い世界だからなんですが、どういう

意味かというと、

物体は 確実に 存在しているが、後(あと)は 抽象だと思っている。特に

科学をやっている人たちは

そう思っています。けれども、よく考えてみると 現実なんてありはしない。

なぜかというと

すべては 脳が 把握していることであるから。だから 僕は 唯脳論を

唱(とな)えています。

要するに 脳に映ってこなければ 何もないことになる。しかも、もっと

極端に、脳は

何があるもので 何がないものかということを勝手に決めているのです。

それを現実感と僕は呼んでいます。

つまり誰だって 物体の存在は 否定しませんが、それはどうしてかという

と、脳は 絶えず

自分の中を 動いているものに対して 現実感を与えるという癖(くせ)が

あるからなんです。

だから物体とは何か ということを 脳から定義すると 非常に簡単で、

人間の感覚は

五感しかありませんから、ある対象が 五感のすべてに 訴えかけるときに

それを物体というわけです。

つまり、目で見て、音でとらえて、感触、嗅覚、味覚でとらえる。

そういうものが物体ということになる。

 

<中略>

 

 僕は、英語を持ち込んで、五感から入る物体的なものを、アクチュア

リティ(actually=日常性)と呼んで、

それ以外のものをリアリティと呼んだほうがいいと思います。

 

 ですから想像的な世界も リアリティであり、宮崎アニメは 典型的な

リアリティなのです。

それぞれの脳が、実は『情報』に対する 重み付けなんです。現実という

ことは、重みをつけている

ということなんです。・・・それを具体的に判断できるか、その人が何を

現実と思っているかは、

その人の行動が、それによって影響を受けるものは すべて その人に

とって 現実ということなんです。

だから、僕は、人の数だけ、現実はある と考えます。アニメだから、

御伽噺(おとぎばなし)だから、

それは 作り物でしょうというのは、多分違うんです。それをいうなら、

世界そのものが作り物ということになりますからね」

 

(聞き手)

「それにしても、この映画は観(み)終わった後、親しい人に『あなた

は観てどうだった』と

語り合いたくなるような映画だと感じました」

 

(養老氏)

「感性の世界は、そういう面を持っているんです。つまり余韻が残るん

です。

僕らは理屈の商売だから、物事を綺麗に切っていかなければならない。

しかし、

綺麗に切ってしまうと、それ自体は綺麗だけれど、余韻が残らない。

実も蓋(ふた)もない

ということになってしまうんですが、アートの良いところは、そういう

余韻が残るところです。1枚の絵でも、

そこから いろいろなことが 引き起こされてくるでしょう」

 

 

 以上の、大変貴重な、養老さんの お話は、『千と千尋の神隠し』を

鑑賞したあとのインタビュー記事でした。

 

 多少は難解ですが、さすが東京大学の名誉教授、日本の最高峰の知性の

お話で、理路整然として

僕には、芸術(アート)のリアリティとは何か、その価値とは何か、そんな

難問に、1つの説得力のある答えを 提示してくれている気がします。

 

もっとも、信頼している科学でさえ「暫定的な答えであり、未来にはその

変更もありえる」といわれていますから、絶対的な

真理などは、人間には なかなか、わからないのかもしれません。

 

 養老氏が説く『唯脳論』について、氏が語る若干の文章をご紹介します。

 

「人間は生まれてから死ぬまで、常に変わっていく。『変わらない私』を

前提とした

西欧近代自我は、脳=意識が生み出したフィクション(つくりごと)に

過ぎない。

わたしが書こうとした そのことは、『諸行無常』という短い言葉の中に

すでに 言い尽くされています。

 

あるいは無我というのも同じ意味でしょう。私が書いたものが、お経に、

近づいていったのは、

日本語を使って書いたからでしょう。日本語の抽象的な語彙の多くは、

もともと

経典から出ています。『意識』『心』『愛』『自由』『時間』といった

言葉は すべて、梵(ぼん)語を

訳したものです。みなさん、あまりご存知ありませんが、仏教は相当

高度な抽象思考を持っているんですよ。」

 

【資料】

キネ旬ムック『千と千尋の神隠し』を読む40の目 キネマ旬報社 

仏教入門特集 文芸春秋 2004年 4月号

 

 

 

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

 

 

吉本氏は、夏目漱石の全集を5,6回は読み返したという。

氏の下記のお話を聴くと、私(Z)も

漱石も、真のリアリティを求めて、格闘していた 巨匠だったと思う。

 

「ぼくの知り合いで、欧米白人と結婚した女性がいます。話の折に、

『むこうの男は そんなに いいかね』

なんて無遠慮に訊(き)くと、こんな答えが返ってきた。

『むこうの男が、

日本の男と比べて、とくに素敵とは思わない。でも、1つだけ、

逆立ちしても

かなわないなと思うことがある。それは普遍性というものへの確信よ』

 

 普遍性への確信というのは、文化の違い、人種の違いを超えて、

人間のあり方としての

共通性を信じるということです。そういう信仰にもとづいて、

文化も創造するし、恋愛もする。

それは日本の現実とは ほど遠いものだというのです。

 

 普遍性への信仰は、裏腹に、特殊性への蔑(さげす)みをともないま

す。西欧のインテリと話をしていると、

なんだ、こいつ、ものわかりのいい顔したって、一皮むけば、日本人を

野蛮な者としか見ていないじゃないか。

そう感じさせられて鼻白むことが、しばしばあります。

 

 漱石が英国で直面したのは、そういう世界でした。

 

漱石はロンドンで、『普遍性』という相手の土俵に立ち、自分を相対化し

、返す刀で 相手をも相対化するような、

熾烈な本質追求を試みたのです。これは大変な作業です。独(ひと)りで

背負うには、荷が重過ぎる。

だから、いっぱい背負って、いっぱいわからなくなった。いっぱい

わからなくなっても

なりふりかまわず、進んでいったのです。その姿は、傍(はた)からは、

発狂した、と見えた。

その七転八倒の軌跡が、『文学論』です。」

 

 

○書簡から

 

明治39年10月26日付、生徒の鈴木三重吉(みえきち)への書簡から

 

「僕は一面に於(お)いて、俳諧(はいかい)的文学に出入りすると

同時に、一面に於(お)いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な

維新の志士の如(ごと)き精神で文学をやりたい。

 

それでないと、なんだか難(なん)を捨(す)てて、易(い)につき

劇(げき)を厭(いと)ふて、閑(かん=暇ひま、無事)に走る

所謂(いわゆる)腰抜け文学者の様な気がしてならん」

 

 

明治39年11月16日付、編集者の滝田樗陰(ちょいん)への書簡から。

 

「後世(こうせい)に残る残らんは、当人たる僕の力で左右する

訳(わけ)には行(い)かぬ。しかし、いやしくも文筆を持って

世に立つ以上は其(その)覚悟である。」

 

 

【資料】文芸春秋 平成16年12月 臨時増刊号

 

 

 

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

 

 『東京タワー』など、たくさんの恋愛小説の書き手、2004年の直木賞

受賞の 江國 香織さんは、エッセイ集の『泣かない子供』で、

『 なぜ書くか 』の中で、リアリティについて語っている。

 

「 人が どう見ているかは ともかくとして、私は いつも リアルなもの

を書いていたいのだ。

リアルじゃないと 小説は つまらないと思う。私に とってあらゆる 小説

はファンタジーなのだ。

ファンタジーというのは 河合隼雄さんの 言うところの『 たましいの

現実 』であり、

それが私にとっての リアリティーだと思っている。したがって、それは

『 ありそうなこと 』か どうか、

あるいは『 たくさんの人が さもありなんと うなずくこと 』かどうか、

と なんの関係もない。

そういうのは 錯覚( しかも みんなが 一っぺんにする錯覚 )

だと思う。

リアリティー というのは もっと個人的なものなのだ。そういう 個人的

な真実を信じられなく

なったら おしまいだ。他に 信じられるものなんて 何もない。と

少なくとも 私は 信じている 」

 

 このくらいの 確信というか思い入れがないと、江國さんの ような

優れた作品は書けないとも思う。

(といっても、まだ、あまり作品を拝読していませんが)

虚構を《 虚構としての 現実》として楽しむことが、人生や心を豊かに

するのだと、私(Z)も強く同感します。

 

 

 

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

 

「宮崎アニメのヒットの秘密は、プロデューサーの鈴木敏夫の人材活用術」

というNHKの『プロフェッショナル』の放送がおもしろかった。

 

宮崎アニメが、どれだけ人気があるかというのが、数字で見ればわかる。

日本の映画の歴代興行収入では、『千と千尋の神隠し』が、興行収入

304億円、観客動員2300万人でトップ(1位)という金字塔を打ち

立てている。2位が『タイタニック』で260億円、3位が『ハリー・

ポッターと賢者の石』で203億円、4位が『ハウルの城』で196億円、

5位が『もののけ姫』で193億円で、なんとベスト5に、宮崎アニメが

3つも入っているのです。(^^;)

 

そのすべてに、鈴木氏はプロデューサー(producer=制作責任者)と

して深く関わっている。

 

その仕事は、映画の企画から、予算調達、人集め、スケジュール管理、

宣伝・戦略まで、いわば映画の始まりから終りまで、すべての責任を

負(お)う、その責任者です。

 

『千と千尋の神隠し』で、「少女が、生きる力に目覚めていく物語に

しよう」と提案したのもスタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫

(としお)氏(57)だった。

 

鈴木氏のもとでは約千人の人たちが動くのだそうだ。それぞれの人を

『やる気』にし、その力を最大限に引き出すそうで、鈴木マジックと

呼ばれているそうだ。

 

「(作品は)やっぱり楽しいものにしなければいけないんだよ。

そのためにはまず第一に自分が楽しまければいけないわけよ」

 

鈴木氏には、大切にしている流儀があるそうだ。「仕事を仕事じゃなく

するのが得意なんですよ、おれ。仕事だと思っていると、やってられ

ないもん。ばかばかしくて。でしょう」と語る鈴木氏。仕事を、みんなで

楽しむ『祭り』変えるのだそうだ。

 

鈴木氏が手がける映画の予算は数十億円。ひとつ判断を誤(あやま)れば、

巨額の損失を生む。その仕事には、猛烈な重圧は鈴木にのしかかる。

 

そんな鈴木氏が心に決めていることがある。それは「自分は信じない。

人を信じる」ということ。「自分を信用してない。自分を信用しては

いけないと思っている。1人の人間が考えることっていうのは、たか

だか知れているという考えなんですよ。これ、誰であっても」と

真剣な眼差しで語った。

 

目を輝かせる子どものように、すてきな笑顔の鈴木氏だった。

 

以上、NHKの『プロフェッショナル』(2006年4月6日放送)より

 

 

 

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

 

作家の村上春樹がほとんどレイモンド・カーヴァーの翻訳や紹介をして

いる。そのカーヴァーが『書くことについて(オン・ライティング)』

という本(残念ながら絶版です)を書いているそうだ。

 

その本を中条省平氏が『小説の解剖学』という本で紹介しているのだが、

その内容は、作家に限らず、創作を目指す人には、勇気のわくような

言葉だと思った。以下は『小説の解剖学』から。

 

「作家は命がけの商売で、常に自分は明日から書けなくなるんじゃないか

という強迫観念と闘いながら生きている存在です。レイモンド・カーヴァー

の書くことについて(オン・ライティング)』には、そういう作家たちが

どんなふうに危機を乗り越えるかという具体的なケースが書いてあって、

とても面白(おもしろ)い。

 

カーヴァー自身が例を挙げているんですが、『アイザック・ディーネセン

はこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます。

と』。これは三島由紀夫タイプですね。エクササイズ(=練習、運動)

として毎日ちょっとずつ書くことが必要です。(中略)

 

基本的に一字一句きっちりと書くことからしか小説は生まれません。

 

そして、希望もなく絶望もなく、というのは、作家がものを見つめるため

には、ものすごく高揚していても見きれないし、まったく落ち込んでいても

見きれないということです。

 

『いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の壁の横に貼っておこう

と思う。壁にはいま何枚かのカードが貼ってある。《基本的な正確さを

持って記述すること。それこそが文章を書くことにおける唯一のモラリティー

[morality=道徳性、倫理性、教訓など] である》』。

 

この言葉はエズラ・パウンドのものですが、非常に重要なことです。それだけ

が唯一のモラルです。」

 

 

 

 

【資料】(敬称略)

 

『作家養成講座』   若桜木 虔(わかさきけん) KKベストセラーズ

『芥川龍之介の復活』      関口安義・著  洋々社

『芥川龍之介・その生涯と文学』 山梨日日新聞(1991年9月25日版)

『文豪ナビ・芥川龍之介』        新潮文庫 

『芥川龍之介』     関口安義・著  岩波新書

『小説の自由』     保坂和志・著  新潮社

『書きあぐねている人のための小説入門』 保坂和志・著  草思社

『坂口安吾全集・14』         ちくま文庫

『そうだ、村上さんに聞いてみよう』 村上春樹・著  朝日新聞社

『人生読本・第6巻・小林秀雄』   佐古純一郎・編  角川書店

『日本論』            坂口安吾     河出文庫

『小説の解剖学』        中条省平     ちくま文庫

『作家の値うち』      福田和也     飛鳥新社

『サライ・夏目漱石』    2005年6月2日号

『対談集・作家はなぜ書くか』  安岡章太郎

『文学とは何か』       加藤周一  角川新書 角川書店

 

 

◆著作権は ご本人に 帰属致します。引用は 著作権法 以内と考えます。

 

 著作権法 第三十二条。公表された著作物は、引用して利用することが

 できる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するもので

 あり、かつ、報道、批評、研究 その他の引用の目的上 正当な範囲内で

 行なわれるものでなければならない。

 

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