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☆ 詩とは何か? ( 総力・特集 )

 

以前にまとめたものですが、入手が困難となっている西脇順三郎氏の

 (f)の『現代詩の意義』『PROFANUS』などを、加筆しました。

 

ーーー目次ーーー

 

◆ はじめに 『まとめ』として   Z(ぜっと)  

 

(a)『詩の七つ道具』について C・D・ルーイス

 

(b)小林秀雄の『詩について』

 

(c)谷川俊太郎氏の『世界へ』

 

(d)吉本隆明氏の『詩とはなにか』と『言葉の二重性』

   萩原朔太郎の『詩の原理』

 

(e)「暗喩は、詩の現在を超えようとする」と吉本隆明氏は語る

 

(f)西脇順三郎氏の『現代詩の意義』と『PROFANUS』から。 

 

(g)「ところで詩とはいったいなんだろう」吉行淳之介氏

 

(h)『詩の文体』より。 小野十三郎氏

 

(i)「俳句は詩である」金子兜太(とうた)氏(1919年生まれ・俳人)

 

(j)『霊的に表現されんとする俳句』 飯田蛇笏(だこつ)氏

 

(k) 中原中也の詩 小林秀雄氏

 

(m) リズム・メロディ・コンセプト  細野晴臣(はるおみ)氏

 

(n)メキシコの詩人、批評家のオクタビオ・パスの言葉

 

(p) 詩論  三島由紀夫氏

 

(s)『言葉は完全に伝達のための道具になってしまった』福田和也氏

 

(t)『発信型』の人間になろう。 水谷 修(名古屋外国語大学学長)

 

(R) 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)詩集の解説から。

 

    現代詩をめぐる問題やその他の、詩人・荒川洋治氏のお話。

 

(U)茨木(いばらぎ)のり子氏の『詩のこころを読む』から。

 

 

---本文ーーー

 

 

◆ はじめに 『まとめ』として   Z (ぜっと)

 

 

 アメリカの作家のエドガー・アラン・ポーは、『詩の原理』というエッセイの

なかで、詩について、下記のように語った。

 

 詩とは何か?という、詩の定義を、これほど、単純明確に語った言葉を

ぼくは、他に、ほとんど、思い出せない。

 

 「一遍の詩が、詩の名に値するのは、魂を高揚し、興奮する限りにおいて

であるのは、言うまでもない。

詩の価値は、この高揚する興奮に比例する。」

 

 また、下記の言葉は、ロックの音楽評論家であり、『ロックキング・オン』の

出版事業で知られる渋谷陽一氏の『音楽とは何か』の冒頭の言葉です。

 

 「今、在るものを超えようとする限りない意志。それが音楽に限らず、

すべての表現の基本であるし、そうでなければならない。」

 

 詩や芸術の理想とは、世界に対する、美しさの表現や批評精神などと、

おおまかに、いえるのかもしれません。 

 

 高村光太郎の詩に『笑(わらい)』というのがあります。

 

 

   笑(わらい)

 

 

 笑は 天の 美禄(びろく)

 何処(どこ)か 遠いところからの 上げ潮。

 

 まったく くくとして をかしいのは

 ベルグソンの知らぬ世界。

 

 花が咲くのは何と滑稽、

 箸がころぶのは何と不思議。

 

 

 

【解説】

 

 美禄(びろく)=すばらしい、たくさんな給与。酒の異名。

    くく=喜びの表現

    ベルグソン=1859〜1941 フランスの哲学者。パリに生まれ

     http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q263C100.HTM

 

 

 作家の村上春樹が「僕の好きな文章」としてあげている下記の4つなど

は、とても単純明快な、文章観(芸術観)と思います。

 

(1)鋭利なリズムのある文章。

(2)深い優しさのある文章。

(3)ユーモアのある文章。

(4)姿勢が良く志のある文章。

 

 また、ドイツの詩人・リルケは書簡(1904年4月29日付け)で、

こう語ります。

 

「 愛を真剣に受けとり、愛に悩み、まるで1つの仕事のように 愛を学ぶ

こと、それこそ 若い人たちにとって必要なことです。」

 

 詩人や芸術家や人間の『志』を語る言葉として、こんなに感動的なもの

も、なかなか見当たらないと思います。

 

 

 【資料】 ロック微分法  渋谷陽一氏著  ロックング・オン  その他

 

 

(a)

 

 『詩の七つ道具』について。 C・D・ルーイス

 

 『詩の七つ道具』を、英国の著名な詩人、ルーイスは、1944年の

『詩をよむ若き人々のために』の中で語っている。

 

 「実は詩というものは、韻律などを抜きにしても立派に作られるのですが

、あの隠喩とかイメージが絶えずあらわれてくるところの、心の激しい

感動がなかったならば、詩は はじめから作られないのです。」

 

 また本書の解説では、詩人の井坂洋子氏が、総論のように語っておる。

 

 「ルーイスは、本書の成人版とも言うべき『詩をどう読むか』(鶴岡冬一

訳)で、『直喩と隠喩とは、詩人が自分の外なる事物に感じる共感と愛の

しるしです』と述べ、イメージについては無意識の海に詩人は釣糸を垂れ

て、ひとつのイメージを辛抱強く、釣り上げてくるものであり、それは原

始時代と同じように、今日でも、確実に、精神の物質に対する支配を、く

れぐれも主張する方法だ』と述べています。

 

 詩の、この現実世界における普遍的な価値を、こんなに言い切っている

ものはないし、今後、詩がぱったりと書かれなくなってしまう事態もない

だろうと希望を抱かされます。人間が人間である限りは。人間が言葉を奪

われたり、捨てたりしない限りは。」

 

 詩の七つ道具についての ルーイスの言葉を 下記にまとめてみました。

 

(1)

 

 直喩(ちょくゆ)について。修辞法の1つ。『のごとき』とか『のよう

な』とかいう単語を用いて、二つの事物を直接に比較して示すもの。

simile。明喩。→隠喩

 

 

 時(とき)をかまわず鳴(な)りやまぬ 風の音

 

 いまそれも抱(か)い懐(いだ)かれて、花の眠りを

 

                       (ワーズワース)

 

(2)

 

 隠喩(いんゆ)について。比喩法の1つ。『のような』『のごとき』な

どの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。『花の

顔(かんばせ)』『金は力なり』『鉄の意志』の類。暗喩。メタファー。

英語のmetaphorは、移しかえるという意味である。

 

 隠喩とは、『のような』『のごとき』などの言葉で結びつけられるので

はなくて、『のような』『のごとき』を抜きにして、2つのものが溶かさ

れて、単一の言葉に変わってしまうことである。一種の『圧縮された直喩

』ともいうべきものである。隠喩は一種の近道である。

 

(3)

 

 形容について。epithet。名詞を修飾する形容詞なりと、文法の本など

には載っている。物事の姿・性質・ありさまなどを言い表すこと。また、

他のものにたとえて表現すること。

 

 

 虎(とら)!虎!闇に燃える

 密林の闇間に

 この恐ろしい均合(つりあ)いを組み立てしは

 何(なん)びとか?神の御手か、神の眼か?

 

                       (ブレイク)

 

 

 上記はブレイクの有名な詩です。『恐ろしい』という形容で、みなさんは

胸がドキドキしませんか。真の森の闇の中で、本物の虎にバッタリ出くわ

ときの恐ろしさを感じませんか?

 

(4)

 

 音楽的地模様について。どんな散文でも、われわれの口から出るどんな

言葉でも、なんらかの種類のリズムやアクセントなどをおびている。韻律

(いんりつ)。押韻(おういん)。頭韻(とういん)などがある。

 

 ちょうど機械工がエンジンの音やリズムから、エンジンの運転具合を当

てるように、詩でもその音とリズムで、その詩のよしあしがわかります。

 

【資料】詩をよむ若き人々のために C・D・ルーイス ちくま文庫

 

 

(b)

 

 小林秀雄が『詩について』(1950年4月)で、このように語る。

 

 「詩は 一般に定義し難いものであるし、私は詩人でないから、詩作の

経験によって、詩学めいたものを抱いているわけではない。

 

 ただ私は学生時代、特にフランス象徴派詩人の作品から非常な影響を

受けたので、詩について何か語ろうとすると、その影響の性質について

語ろうとするほかないようである。

 

 私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というもので

あった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、もしボオドレエル

という人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと

思われるくらいのものである。

 

 ボオドレエルのワグネル論の中に、こういう言葉がある。『批評家が

詩人になるということは、驚くべきことかもしれないが、詩人が批評家

を蔵しないということは不可能である。私は詩人を批評家中の最上の

批評家と考える』

 

 確かに、ボオドレエルは当時の最上の批評家であった。」

 

 なぜ、詩人は批評家となるのだろう。素直な澄んだ眼差しで、世界を

見れば、世界のゆがみや狂気が当然に見えてくるのだろう。この世界は、

愛や詩からは、遠い場所にあるということだろうか。したがって、人が

芸術家や詩人になるとき、必然的に、批評家になるのだと、僕(Z)は思う。

 

 

(c)

 

 詩人の谷川俊太郎氏は『世界へ』(1956年10月号ユリイカ)で、語る。

 

 「詩は私のものではない。詩は世界のもの人々のものだ。詩人は詩を書く

ことで世界と結ばれなくてはならない。時に私も、沈黙によってのみ

世界と結ばれると思う時がある。

 

 だが、それさえも、詩人を生かすための感動のひとつの核にせねばならな

ぬと私は思う。

 

 詩人が自(みずか)らを生かすこと、人々を生かすことに区別はない。

詩人は自らを生かすことによって、人々を生かし、人々を生かすことによって

自らを生かすのである」

 

 詩人は、特別な階級の人でも、特権を持つ人でもない。普通の人だ。

詩人や芸術家は、平等や自由や楽しい生き方の、実践の人であるできだと、

僕(Z)は思う。

 

(d)

 

吉本隆明氏の『詩とはなにか』と『言葉の二重性』

 

   萩原朔太郎の『詩の原理』

 

 詩人、思想家の吉本隆明氏は『詩とはなにか』(1964年12月)で語る。

 

「詩にとって確かなことは、たとえその中で世界を凍らせる言葉が綴られ

たとしても、やがて詩は終わり、心の励起(れいき)は終わりを持つという

ことだ。

 

 だが現実は『永久』に私たちを抑圧する。もちろん抑圧された現実の中でも、

たたかったり、眠ったり、愉しんだり、休息したり、判断を中止したりして

いるし、残念なことに、それが、生活している《しるし》になっている。

 

<中略> 

 

 私たちは、いま、私たちが私たちでありえる方法を、

私たちが私たちでない現実社会の中で妄想する時に、詩的な喩(たとえ)の

全価値にたどりつく」

 

 「萩原朔太郎の『詩の原理』で、『夢とは何だらうか?夢とは現存しない

ものへの《あこがれ》であり、理知の因果によって方則(=決定)されない、

自由な世界への飛翔である。そして詩が本質する精神は、この感情の意味に

よって訴えられる《現存しないものへの憧憬》である。』という箇所は

 あきらかに 私の詩の動機と接触する」

 

 

 本メルマガ(?73)でご紹介した吉本氏の『言葉の二重性』を再録し

ます。

 

 大著《言語にとって美とは何か》の中で、言葉というものには、二重性

が本質にあると、語られている。その1つを、指示表出性といい、その特徴

には、社会性、意味の伝達、事務的機能、実用的、などをあげている。

 

 もう1つは、自己表出性といい、エロス(性愛)性、共感の喚起、文学的な

感動、無用の用(無用とされていることは、かえって大きな役に立つこと)

をあげている。

 

 指示表出性  社会性   意味の伝達  事務的機能   実用的

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 自己表出性  エロス性  共感の喚起  文学的な感動  無用の用

 

 

(e)

 

 「暗喩は、詩の現在を超えようとする」と吉本隆明氏は語る。

 

 吉本隆明氏(吉本ばななの父親で詩人、評論家、思想家)は、著書

『マス・イメージ論』(1984年 刊行)で、『暗喩』に深く言及している。

 

 現代詩人の井坂洋子氏の『トランプ』、伊藤比呂美氏の『青梅が黄熟する

』などの詩を引用しながら、吉本氏は『喩法論』として次のように語る。

 

 「若い現代詩を代表する優れた女流の、同質の詩を接合してみたもので

ある。同質というのは、まず、かつて男性が占めていたと無意識に想定

されていたエロス(=性愛)の視線の位置を、女性として自然に占める

ことができている、という意味である。<途中省略>

 

 これらの詩人たちの詩を読むとき、<途中省略>一種の感動に似たもの

をおぼえる。なんとなく、とうとうここまで届き始めたのか、といった

思いにかられる。

 

 しかし詩の意味はそんなところにはとどまらない。すぐわかるように、う

わべだけでは喩法(ゆほう=たとえ)といえるほどのものはどこにも使わ

れていない。

 

 むきだしの自己主張の言葉が、エロスの願望に沿って、次々と押し出され

てだけみたいにみせている。だが本当はそんな単純な願望の表白ではない

 

 あるいは別の言い方をしてもいい。このむき出しの自己主張の羅列のよう

に見える言葉を、全体的な暗喩としてうけとる視覚の範囲に、現在の謎が

隠されている。

 

 詩人たちが無意識かどうかはどちらでもいいことだ。それがこのラジカル

な女流たちの詩がもつ新しい意味だ。

 

 これほどまでにむきだしエロス的な主張の言葉を連ねるのは、これらの

女流たちが欲望が強いからでもないし、はにかみや礼節を知らない破廉恥

おんなだからでもない。

 

 現在というものの全体的な暗喩の場所で、言葉が押し出されているから

なのだ。

 

 その暗喩の共通項は《女性という深淵をまたいで、現在の真向かいに

立つ姿勢》のように受けとれる。女性という深淵をまたいでという言葉を

抜きにすれば、それぞれの時代の優れた女流は単独でいつも『現在の

真向かいに立つ姿勢』を、言葉の表出にしめしたといえる。別のいい方を

すれば《男性に伍した》ということだ。

 

 だがこれらの女流の詩が暗喩するものは、それとは違っている。また全く

新しいものといえるものだ。ひと口に、それは《男性の位置にとって

代わって》という暗喩を持っているからだ。

 

 男性の位置に代わって、男性でなければ異性にもつことのなかったエロスの

気まぐれな欲求がうたわれる。<途中省略>

 

 それは現在のいちばん切実な神話のひとつだ。<途中省略>現代詩(という

ことは詩歌の歴史ということだが)はこれらの女流詩人たちの作品で初めて、

その女性の場所にたどりついている。

 

 心の深層に押し込めてきたエロスの欲求などを、詩の言葉に表出している。

そういう言葉の外装によってこれらの女流詩人たちは、あるしっくりした、

たしかな眼差しで、どんな劣等感もそれを裏返した優越感も、世襲財産と

しての美や教養も売物とせずに、まったく手ぶらで自然な姿態で、この

現在に立っているものの暗喩を実現している。」

 

 また、吉本隆明氏は、中島みゆきや松任谷由美の詩を引用して、

次のように述べる。

 

 「わたしには これらの歌い手たちの詩は、かくあるべき女性の愛恋の形

という虚構の設定に向かって、言葉を集中していく仕方のようにおもえる。

 

 もうすこし違う角度からいえば、自分の情緒や情念を、かくあるべき物語化

の舞台へ置きなおす言葉の作業のように見える。

 

 たぶん、どこにも偽の感情や、偽の情緒はない。ただ自己感情や情緒を

あるべき虚構の舞台へ、少しでも乗せようとする努力の中で、詩は

成り立っている。これらの歌い手たちの詩は、いずれも若い現代詩

としてすぐれている。」

 

 「では、詩の言葉を産(う)みだすことが、それ自体で全体的な暗喩だと

すればどんなことなのか?またそこでは《暗喩されるもの》と《暗喩する

もの》とはどうなっているのか?これが現在、詩の審級(=詳しく

調べること)にとっての最後の問いにあたっている。

 

 いままでこだわってきたところに答えはふくまれているかどうか。

というのは、若い現代詩の喩法の特質を、もっぱらポップ詩や歌謡曲と

地続きなところで扱ってきたが、厳密にいえば、それが若い現代詩の

すべてへの緒口(いとぐち=手がかり)だかどうか、これだけでは

決められないからだ。

 

 ただ誰でも出口と入口さえあれば、全体を暗喩できるような『言葉』を

捜し求めているところでは、詩が、現在、はじめて獲得し始めた外部への

言葉の滲出(しんしゅつ=にじみ出ること)力を特徴として信ずるほかない。

 

 

 

 『見附(みつけ)のみどりに』  荒川洋治

 

 

 まなざし青くひくく

 江戸は改代町への

 みどりをすぎる

 

 はるの見附

 個々のみどりよ

 朝だから

 深くは追わぬ

 ただ

 草は高くゆれている

 妹は濠ばたの

 きよらかなしげみにはしりこみ

 白いうちももをかくす

 葉さきのかぜのひとゆれがすむと

 こらえていたちいさなしぶきの

 すっかりかわいさのました音が

 さわぐ葉陰をしばし

 打つ

 

 かけもどってみると

 わたしのすがたがみえないのだ

 なぜかもう

 暗くなって

 濠の波よせもきえ

 女に向う肌の押しが

 さやかに効いた草の道だけは

 うすくすいている

 

 夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ

 江戸はさきごろおわったのだ

 あれからのわたしは

 遠く

 ずいぶんと来た

 

  いまわたしは、埼玉県銀行新宿支店の白金(はっきん)のひかりをついて

 歩いている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代は寒い。葉陰

 のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。

 

 

【注】濠(ごう)=土を掘ってつくった穴やみぞ。城の周囲の堀。

   葉陰(はかげ)=草木の葉のかげ。

   尾(お)=ここでは、影響があとまで残るの意味か?

 

 

 この詩人は、たぶん若い現代詩の暗喩の意味をかえた最初の、最大の

詩人である。まずはじめに、暗喩は言葉の囲い込みの外側へ滲み出て

しまったとわたしには思える。

 

 わたしも人々と同じように、暗喩が言葉の外へ滲み出てしまったあとの

光景に、不服を持たないことはない。ただ滲み出したあとの光景であり、

この詩人の責任ではない。時代の光景が日常性以外のものを非本質として

却(しりぞ)けてしまった責任なのだ。

 

 この詩人以後わたしたちは、暗喩を言葉の技術の次元から開放する1つ

の様式をを獲得したことになる。言葉は詩の囲いを走り出てじかに、

街に飛び交っている会話や騒音や歌う声の中にまぎれ込もうとする。

そういう確かな素振りをみせるようになった。

 

 すると言葉は素朴なリアルな表出に代わってゆくと考えるのは、現在に

対する錯誤である。そう考えるのはポピュリズム(=一般的?)風の

理念に先行されて、現在を喪失しているのだ。

 

 詩の言葉が詩の囲いを走り出て、街のなかに飛びかう言葉に交わり始め

ようとするとき、言葉は超現実的な様相を呈し始まる。それが現在という

ことが、詩にあたえている全体的な暗喩の意味だと思える。

 

 逆行する記憶に乗って江戸の濠ばた見附道を歩いている。『妹』が繁み

に走りこんで、しゃがんだままさわやかな音を草の葉にたてて放尿して、

駆け戻ってくる。

 

 『わたし』はそこにみあないので『妹』は佇(た)ちまよう。わたしは

草が押し倒されてつけられた路を通って、エロスの情念に沿って立ち

去っている。記憶からさめると自分は現在、新宿の盛り場で、さびしく

寒い現在の言葉と騒音が飛びかう街中におかれている。

 

 易(やさ)しい口語で詩を走り出ようとする言葉。そうすればするほど

表出の様式が、超現実に近づいてゆく。ひと通りの意味では、この詩は

そんなふうに読める。

 

 そこで詩の言葉が、記憶の逆行によって現在を超えるその部分で、

全体的な暗喩を構成しているとみなすことができる。そして、この詩の

場合では《葉陰にしゃがんで放尿する妹》、《駆け戻ってくるとわたしの

姿がない》という場面のイメージが、暗喩の全体性の核になっていることが

わかる。

 

 《葉陰で放尿する妹》というイメージが、一般的に現在を暗喩するのでは

ない。またこの詩人の個性に引き寄せられるために、このイメージが現在を

暗喩することになるのでもない。

 

 詩の暗喩という概念が、詩という囲いを走り出て、外側へ滲出してしまう

勢いの全体性のなかで、はじめてこの《葉陰で放尿する妹》というイメージ

が、現在という時代の暗喩になっているのだ。

 

 わたしにはかなり鮮やかな達成のように思える。言葉の高度な喩法

(ゆほう=たとえ、暗喩。隠喩法。メタファー)が、言葉の囲いを

走り出してそのままの姿で、街路に飛びかう騒音や歌声や風俗に

混じろうとする姿勢を、この詩に象徴される作品がはじめてやって

みせている。

 

それからどうするのだなどと問うても意味をなさない。何となく、

とうとう、やりはじめたな、という解放感をおぼえるだけだ。

 

 こういう全体的な暗喩だけが、詩の現在を超えようとするときの

徴候であることは、言葉が街路にありながら、暗喩が、詩の言葉の

囲いの中に閉じ込められた状態を想定してみるがよい。

 

 そのような同種の詩はあるのだ。優れた詩は数すくないとしても、

いわば普遍的な兆候としては無数に潜在して、現在を形づくっている。

 

 

 

 あぶな坂    中島みゆき

 

 

 あぶな坂を越えたところに

 あたしは住んでいる

 坂を越えてくる人たちは

 みんな けがをしている

 橋をこわした

 おまえのせいと

 口をそろえて

 なじるけど

 遠いふるさとで

 傷ついた言いわけに

 坂を落ちるのが

 ここからは見える

 

 

 

 いうまでもなく、この詩では『遠いふるさと』というのが、全体的な暗

喩にあたっている。だがこの全体的という概念はこの一編の詩の全体を

覆うという意味をあまり出ない。もっともこの評価はメロディやリズムや

音声の参加をカッコに入れてのことで、それらが参加して、言葉を

詩の外へ、現代という時代の現在の中へ連れ出しているのだ。

 

 言葉だけでは、たぶん言葉の囲いを出られない暗喩である。それが

『遠いふるさと』という表現が、やや奇異で甘いと感じられる理由とも

言える。

 

 さきの《葉陰で放尿する妹》というイメージも、詩人にとって『遠い

ふるさと』である江戸時代になぞられたイメージである。だがこの

イメージは、詩の言葉の囲いを超えて、《現在》というこの暗喩の

全体性に参画している。」

 

 

 《人生や創作》の自由を獲得しようとしている《詩》の、現状を、

わかりやすく説明する吉本氏の優れた詩論だと、僕(Z)は思います。

 

 

(f)

 

 西脇順三郎氏の『現代詩の意義』と『PROFANUS』から。 

 

 詩人の西脇順三郎(1894〜1982)は、新潟県生まれ。

1917年慶応大学理財科卒。1923年オックスフォード大学に入学し、

古代中世英語・英文学を学ぶ。

 

 1925年に帰国し、慶応大学教授。わが国における超現実主義

文芸運動の中心的役割を果たす。1962年、芸術院会員。1971年、

文化功労者。http://www.city.ojiya.niigata.jp/data/07.html

 

 

 《天気》

 

 

 (覆された宝石)のような朝

 

 何人か戸口にて誰かとささやく

 

 それは神の生誕の日

 

 

 《雨》

 

 

 南風は柔い女神をもたらした

 

 青銅をぬらした 噴水をぬらした

 

 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした

 

 潮をぬらし 砂をぬらし 魚をぬらした

 

 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした

 

 この静かな柔い女神の行列が

 

 私の舌をぬらした

 

 

 さわやかさや不思議なリアリティのある詩として有名な《天気》

には、15歳の頃に僕(Z)も出会い、宮沢賢治の詩と同様な

「これが詩というものなのか・・」という 感動をおぼえた。

 

 

 ☆☆以下は、西脇順三郎氏のエッセイ『現代詩の意義』から。

 

(一)から。

 

 『詩』というものは、どんなものか、という問題に対して古今東西を

通じて、また時代により、千差万別な答えがあり、また未来にもあろう。

 

ま た個人の場合でも、同一人として年齢により、または、はなはだしく

朝夕にも、詩の観念は、はかない生命を持って変化することもある。

 

 この問題については自分は自分の経験をのべる他ない。

 

 詩ということを(1)外的に見る場合と(2)内面性としてみる場合が

ある。ある詩人は詩を外面的な条件としての一定の表現で書いたものは、

すべて詩という。

 

 例えば詩をリズムの組織と考え、多く その外面上の音楽性を詩の本質と

考える。自分はそうした外面的形式で詩というものをみたくない。

 

 散文であろうが、小説であろうが、絵画であろうが、ある特定の審美的な

情緒を感じさせるものがあるとすれば、それは詩と呼びたい。

 

 だらか、いわゆる詩という形式で作った作品の中に 必ずしも詩がある

のではないと思う。

 

 詩にして詩にあらざる詩があるのと同時に、散文で書いた小説の中にも

詩があることもある。

 

 詩の目的ということを自分は詩の内容と考えたい。それでは詩の目的

乃至(ないし)内容とは何であるか。それは先にあげた特定の審美的情緒の

ことである。

 

 詩の作品は読者に(もちろん作者には当然)この特定の審美感を与えさせる

のが、詩の目的であり内容である。

 

『特定の審美感』というのは特定の美感である。だから自分は『人生派』

の詩は、詩として興味がない。そうした美のための詩を本当の詩と思う。

 

 次に『特定の審美感』というのは、どういう種類の美感であるか。それ

は説明に苦しいが、昔からの言葉を用いると『超絶的な玄妙な美を直感

せしめるもの』である一種の美感である。

 

 この説は神秘説におちいるが、やむをえないことである。

 

 しからば、詩作品の中に、いかなる存在があれば、そうした美感を起こ

させるものか。

 

 その存在は1つの抽象的な、眼に見えない理論的な(たとえれば、原子

形のようなもの)フォルム(姿態)である。

 

 それは通常の経験の世界において、遠い関係に立つ2つのものを近く連結

し、結合させ、また逆に近い関係に立つものを遠く分離させることである。

だから超絶的美感を起こさせるフォルムはそうした関係のフォルムである。

 

 エリオットは若い時、この意味を違った観念で説明しようとした。すなわち、

詩はいろいろな経験を結合して創作された世界であって、特に作品の中で

経験を結合して新しい経験を作り出すことであるようなことを言っている。

 

 詩はそうした新しい関係を創作することである。この意味で、ただ人生

の経験をありのまま述(の)べてもそれは詩ではない。

 

 ゲーテの『詩と真実』はこの意味で詩の貧困である。たとえ偉大な心の

発展を描いた真実であっても。

 

 近代芸術として、この詩の意味は、この超絶的美感を目的として

発展して来た。この効果は(あまり成功した結果ではないとしても)

ボードレールの言ったように、『文学は主として超自然とイロニーで

ある。』またグロテスク(=異様や怪奇なさま)と、淡いかすかな

曖昧なものである。

 

 

(注)

 

 上記のイロニーは、アイロニー 【irony】であり、普通は、

反語、逆説、皮肉などと訳されるが、この場合、理智をさすのであろうか。

 

 

 エッセイ『輪のある世界(文学と理智の問題)』(1932年4月)の中で

西脇氏は 次のように語る。

 

 「論理を好むことも論理を避けんとすることも共に理智の力である。

2つの相反する力が理智の総合の力である。このことは一般文学作用に

関して同様なことを示すこのになる。感情や感覚はそれ自身理智では

ないが、それらを扱う方法や態度は理智である。作者は理智なくして

創作はできない」(注)は以上です。

 

 作詩の困難は、この玄妙な美感を感じさせるフォルムの創作が困難で

あるからである。我々が今日つくっているような詩と称するものは

厳格な意味でも詩ではない。それで詩の貧困というのは実際の意味である。

 

 詩は道徳、宗教、政治上の思想が、その目的もなく内容でもない。

超絶的美感を起こさせることが詩の仕事である。また小説も絵画彫刻も

同様に、そうした詩の創作を仕事として初めて芸術になり得るものであろう。

 

 次に、超絶的美感は思想的価値というようなものは何もないが、

しかし、心理学的にみると その効用がある。それは超絶的美感は

人間の生命の流れを豊穣にする価値がある。

 

 そういう詩を作ろうとする詩人は世間では、単に エスケイピスト

(=逃避者)という そしりを受けるにすぎないが、それは気のどくな

ことである。恋愛をしたことのない人は恋愛を軽蔑したがるが、

詩的快感を知らない人は、そうした詩を軽蔑する。詩はそれ自身の中で

生きている。

 

 

(二)から。

 

 ヨーロッパの歴史からいえば、詩(ポエトリ)ということを完全に

外面的な形態として簡単に考えれば、韻文(いんぶん=一定の韻律を

もち、形式の整った文章。)のことである。

 

 また詩の語法のことにもなる。例えば、blue violets といえば

散文的で、violets blue(青き すみれ)といえば詩の言葉となると

ワイルドが皮肉(ひにく)っているが、そんなものである。

 

 韻文で書かれたものは凡(すべ)て詩といわれている。ただそれだけで

あるとすれば問題にも決してなるはずがない。これはしかし、詩という

ことを外面的に考えてみる町の人々の思想である。

 

 ポエトリという作品世界を構成しているものは、一寸(ちょっと)

でも内面的に考えてみれば、そうした考えれば、そうした考えは

あまりに単調である。いや、それでも詩というものを考えないでも

よい人には、それで結構な安心立命の信念である。

 

 ポエトリの作品の世界を分解してみて、林檎(リンゴ)を割って

のぞいてみるように考えると面白(おもし)い。

 

 音の世界、形像の世界、思考の世界、思想の世界、ポエトリの

真の世界から出来ている。

 

 ポエトリの真の世界というのは、どんな形態か説明できないが、

かりに玄(げん)の世界として置(お)く。

 

 

(注釈)

 

 玄= 老荘思想で説く哲理。空間・時間を超越し、天地万象の根源と

なるもの。 微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。(注釈)以上。

 

 この『玄』の世界を含(ふく)んでいない作品は、如何(いか)に

音の世界、形像の世界、思考思想の世界が美しくとも、その作品は

ポエトリではない。こう考えることが内面的にポエトリをみたこと

になる。

 

 昔から多くの詩人は音の世界が美であるならそれをポエトリだと

する。音の世界だけを重大なものとする。それでは音楽と詩との

根本的な区別がない。それが満足ならばそれもよい。ほとんど

問題にならない。

 

 リズムと音色でつくる音楽的美は詩の重大な要素と考えられた。

「あの柔(やわ)らかい流れ、その淋しさ、春の光の小雨に野の蜂

(はち)のささやきのように、私を和(やわ)らげてくれたあの詩に

感謝する」などは、詩はほとんどリズムを重大なものと考えた言葉

である。だが、昔からこれが普通であった。

 

 それは詩人の考え方で、ある詩人はポエトリというのは音の美しい

世界であって、他(ほか)のものではないと考えている。例(たと)

えば、スインバーンという詩人は特にそうであった。ある大詩人が

この詩人を批評して、「彼はひとつの蘆笛(ろてき)である。

その中を通って、あらゆるものが音楽となって吹かれてしまう」

といった。

 

 

(注釈)

 

 蘆笛=蘆(あし)の葉を巻いて作った笛。あしぶえ。(注釈)は以上。

 

 詩の中枢は玄の精神である。詩的脳髄とか詩的神経と称するのが

玄の精神である。

 

 それでは玄とは。これは科学的に説明出来ないし、論理的にも

説明出来ない。それはその筈(はず)で、玄は論理の破壊された

世界であるから。

 

 新しい論理が必要である。空間的に説明する人は詩の玄というのは

円心であって、しかも円周であるものとする。数学的には1であって

多である。

 

 詩の世界は関係的である。

 

 異なった二つのものが一つのものに調和されている関係が詩である。

 

 詩の美というのは、音と音との関係であり、形像と形像との関係

であり、思考と思考の関係であり、思想と思想の関係である。

 

 如何(いか)なる音、形像、思考、思想もそれ自体は詩にならない。

詩はこれらのものの関係の中に存在する。しかも、異なったものが一つ

のものに調和されている関係である。

 

 詩はこの異常な関係をさがすことである。

 

 この異常な関係のことをボードレールなどは超自然でありイロニーと

いうのである。

 

 詩を美論として考えることも出来る。

 

 美は関係である。ある二つの異なったものが一つのものの中に調和

されることをいう。そういう関係である。そういう関係の中に美が

成立するのである。

 

 ただ一つのもの、それ自体は美になり得(え)ない。もちろん、

一つのものでも美しく感ずることがあるのは、例(たと)えば今、

路上に咲いている名も知れぬ花を見て美感を受ける場合、いろいろの

原因も想像できるが、一つの例としてはその花から受ける感覚と

その花とを見た人の心の情態(じょうたい=内面的状態)との間に

おける関係が偶然に美という関係をうむ場合もある。

 

 この頃(ごろ)は、私が詩をつくる場合には、音の世界から美を

つくろうとはしない。色彩と線と形像と思考との関係において、

詩の世界を発見しようとしている。

 

 ポエトリは如何にして作るべきかというような作詩法的な考えで

このことを書いたのではなく、自分の詩に対する個人的な考えを

少し述べたのである。

 

 詩の作品は玄の精神によって、ポエトリという関係を記述(きじゅつ)

しようとする結果にすぎない。

 

<中略>

 

(五)の途中から

 

 詩などというものは無いという人もいる。これは神学上の無神論に

当たる。

 

 どうも詩というものが、あるかないか、説明できないという人は

詩の不可知論者であろう。あるかないか、よくわからない人。

 

(注釈)

 

 不可知論(ふかち ろん)= 《agnosticism》哲学で、経験や現象と

その背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の

存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも

不確実とする説。(注釈)は以上。

 

 私は詩というものは、あると思うから詩の有神論者だ。ただ、詩は

どういうものか客観的に説明が出来ない。主観的には一つの印象である。

とにかく ある快感を感じる。

 

 その快感は詩ではない。詩が私に与える印象であって、それは

詩自身でない。

 

 詩というものを感じさせるものは作品のある状態であるが、如何

(いか)なる状態の作品が詩を感じさせるか、その状態を客観的には

説明しにくい。

 

 昔からいわれていることは円の中心であると同時に、円周である

一つの状態という。あるいは、二つの違ったものが連結され、それが

調和している。すなわち一であると同時に二であるという状態。

老子の玄だという人もいる。また一つのものが二つのものに分裂して、

しかも一つのものである状態。

 

(注釈)  

 

 老子(ろうし)=儒教の人為的な道徳・学問を否定し、無為自然の

道を説いた。現存の「老子」の著者といわれ、周の衰微をみて

西方へ去ったとされるが、疑問も多い。後世、道教で尊崇され、

太上老君として神格化された。生没年未詳。老。中国、戦国時代の

思想書。二巻。の著といわれるが、一人の手になったものではない。

道を宇宙の本体とし、道に則った無為自然・謙遜柔弱の処世哲学を説く。

 

 茨木のり子氏は、「紀元前の中国の思想家、老子とか荘子という人は

『天と地の精気(=生命根源の力)が凝(こ)って、露(つゆ)となるように、

人の生命もまた、そのようなものである』という考え方をしておりました。

これはまた、超大級のおおらかさ。でも、私はこのような思考法が大いに

気に入っているのです。」と、『詩のこころを読む』の中で語っています。

 

(注釈)は以上。

 

 いずれにしても、異常な状態である。そうした異常な状態を作品の

中につくる時に、詩というX(エックス)をわれわれは心の中に感じる。

 

 近いと同時に遠いものは詩の作品であるから、たとえれば男女の

性的関係が詩の作品であろう。男だけでもなく、女だけでもない。

男と女が結合して調和した時に、詩の作品が出来るのだなどと

たとえられる。

 

 恋愛が詩の中で栄えていることも何か理由のあることである。

 

 しかし、恋愛から詩を感じるためには、換言(かんげん)すれば、

恋愛を詩の状態に置くには、恋愛であると同時に恋愛でない恋愛が、

詩を感じさせるはずである。

 

 恋愛を感じない前に恋愛がある。恋愛を感じたときは、もう恋愛の

消滅が含(ふく)まれている。恋愛はいつもその消滅を急ぐ。

 

 恋愛歌でない恋愛歌が詩としての恋愛歌である。

 

 最後の状態としては、詩でない詩は、詩としての詩である。

詩であると同時に詩でない詩をつくれば、それは詩としての詩である。

 

 ロックという17世紀の哲学者は、判断ということは少しでも

相違点がある場合に、二つの概念を離すことであると言っている。

 

 詩人の大切なエスプリは、逆に少しでも相違点があれば、二つの

離れている概念を迅速に且(か)つ多様に連結することであり、

しかも、そうすることにより読者の喜びと驚きを与えなければ

ならない。

 

 雪のようにひやっとしたといって始めて詩になると、18世紀に

アディスンという人が言っている。

 

 今日ではエスプリというは、くっつけるばかりでなく、離すことも

エスプリである。

 

 

(注釈)

 

エスプリ=【(フランス)esprit】=

1.精神。精髄。こころ。

2.機敏な才気。機知。「―に富んだ作品」

3.気がきいていること。機転。機知。「―のきいた小話」

(注釈)は以上。

 

 

 グルモンだか、離れているものをくっつけたり、くっついている

ものを離す時に新しい考えが生まれるといっていた。

 

 確かに彼の批評はそうした詩的な方法をもって、観念的批評をして

人を驚かしている。

 

 近代の芸術は確かにこの驚きの快感である。

 

 詩もまたそうである。詩も驚きの快感であろう。

 

 詩は美であると簡単にいうことも出来るが、実は美のここの現象では

ない。だから美しいものは直ちに詩にならない。美のイデーである。

美というと誤(あやま)られる。

 

 美の個々の現象と、美のイデーとはまるで異(こと)なるものである。

 

 また、実は美という観念もいいかげんなものである。

 

 だから、芸術は美を表現するのではなく、美のイデーを表現するもの

だと昔からいわれている。

 

 しかし美という形容語を使用することは月並みだが、また科学的

でもないが、ただ便利なために簡単にそういうだけのことだ。

 

 美のイデーは美でない。だから、進んだ詩論では詩は美を目的に

しないという。

 

 ここから詩は蒼白(そうはく=血の気がない顔色)なものとなる。

詩はイデーの世界を表現するというのである。ここにマラルメがある。

 

 イデーというのは観念の根本である。観念はイデーの個々の現象に

すぎない。ここでも詩は観念で説明出来ないし、観念で表現出来ない

ことになる。

 

 セザンヌの林檎(リンゴ)は林檎でない。林檎のイデーを描こうと

して蒼白たるものとなった。セザンヌの色彩は色のイデーである。

 

 この説の意味はわかるが、さて自分はこのイデーをも疑問に思う。

あまりにプラトン的で、例えば扇(おおぎ)を詩で描(えが)こうと

する場合、扇のイデーを描くことは困難である。扇のイデーとは

なんだ。扇にして扇にあらざる扇を書くことはそれほど困難でも

ないが。

 

 扇の詩は扇のイデーを書くというのを目的にするというが、

それは面白(おもしろ)くない。扇のイデーを書いた扇の詩は、

単に蒼白たるものの価値しかない。

 

 詩の現実性というのは、何でもよいから、驚きの快感の美である。

 

 驚きの快感の美といっても単に形容詞にすぎなくて、その内容は

神秘的で説明が出来ない。

 

 確かにイデー説は詩の進歩にすぎない。それはまだ無限に

のびられると思う。

 

 

(注釈)

 

理念(りねん)= イデー(ドイツ語のIdee)= 

  

 1.ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え。

「憲法の―を尊重する」

 

2.哲学で、純粋に理性によって立てられる超経験的な最高の

理想的概念。プラトンのイデアに由来。イデー。

 (注釈)は以上。

 

 詩は先にX(エックス)として表わしたが、驚きの快感のことを

いったのではない。驚きの快感はXの印象にすぎない。Xを

感じた時は、驚きの快感の美を伴(ともな)うにすぎないという

のである。

 

 先に言った時は驚きの快感だということは、詩の印象を記述した

実感にすぎない。

 

 詩というものの本質はXであるといっただけで満足しなければならない。

 

 

 詩は音楽である、という説も決してそれが誤(あや)っているとは

いえないが、そうした詩の音楽で我々に詩を感じさせたときに、

その作品は詩になる。その意味で詩は音楽でない。作品は音楽でも

結構であるが、それが詩感を与えなければならない。

 

 詩の作品はいかに立派な音楽になり得(え)ても、その音楽が詩を

感じさせなければ、その作品は詩とはいえない。

 

 同様に、詩の作品を絵画的にかいても、それはもちろん詩ではない。

その絵画的な作品が詩を感じさせて初めて作品が詩となる。

 

 詩を感じさせない詩を作る詩人よりも、詩を書かなくても詩を

感じる人のほうがより詩人であろう。

 

 次にルネサンス以来、詩人というのは偉(えら)いと思われて来たが、

実際には、詩人はなにもその人の性質にすぎない。

 

 作品を書くか、書かないかは詩人と詩人でない人との区別には

ならない。

 

 詩を感じる人は詩人だと思う。詩の作品を作る人は必ずしも

詩人ではない。これは同様に画家でもそうである。私は詩を

作るが、必ずしも詩を感じさせる詩は作れない。

 

 魚釣りと同じく偶然をたのむ他ない。昔の人は、詩をのべる前に

必ずミューズの女神を呼んで、どうぞ 私はこれから・・・・・というが、

助けてくれという。詩は 人間わざではない、御筆先(おふでさき)

かのように考えていた。

 

 

(注釈)

 

ミューズ【Muse】= ギリシア神話で、文芸・学術・音楽・

舞踏などをつかさどる女神ムーサの英語名。

 

御筆先=宗教で 神様のお告げを 教祖が 書きとめたといわれる文書。

 

(注釈)は以上。

 

 

 詩を作るのは人間でなく女神である。私には偶然は女神である。

今日の詩人または詩つくりは あまりに人間的であって、自己の力だ

と思っている。

 

 詩の作品が詩になるためには、何か神秘的な力が必要である。要点は

詩は、人の心の中に感ずるものであって、作品自身は詩でないと思うから、

詩を作るときは、詩を感じさせるものを描(えが)こうとするのである。

 

 作品を夏とすれば 薔薇(ばら)は詩である。私は 薔薇をつくるのでは

なく、夏をつくるのである。

 

『夏が その魂を 野ばらに うちこむ時』

 

は 私には 千載(せんざい)の思いである。」

 

(注釈)

 

千載=千年、長い年月。(注釈)は以上。

 

◇ 『現代詩の意義』は、以上で完結しています。

 

 

 

☆☆『PROFANUS』の(1)の冒頭から。

 

 「詩を論ずるは神を論ずるに等しく危険である。詩論はみんなドグマ

である。マラルメがイギリスの学生に聞かせた講義も今では軽薄な

ドグマになった。

 

 人間の存在の現実それ自体はつまらない。この根本的なつまらなさを

感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の

興味(不思議な快感)をもって意識さす1つの方法である。俗にこれを

芸術という。

 

 習慣は現実に対する意識力をにぶらす。伝統のために意識力が冬眠

状態に入る。故(ゆえ)に現実がつまらなくなるのである。習慣を破

(やぶ)ることは現実を面白(おもしろ)くすることになる。

 

 意識が新鮮になるからである。しかし注意すべきことは習慣伝統を

破るために破るのではなく、詩的表現のために、換言すれば詩の目的

としてつまらない現実を面白くするために破るのである。

 

 実際に習慣伝統を破るならばそれは詩ではない。倫理であり哲学である。

人間が現実を意識する習慣上の方法は普通の感情であり、理性である。

 

 この通俗の感情、この理智を破るときは、意識力が習慣伝統より脱して

現実を新鮮に意識することが出来るのである。

 

 これは俗に批評家が近代の詩は破壊のみをなし建設せぬと言って罵

(ののし)るところであるが、実はこの破壊は詩の建設である。

この破壊がなければ詩が創造力を得ない。理智は現実を理性をもって

意識するが、詩は理性を破り或(ある)いは軽蔑(けいべつ)して

現実を意識するのである。

 

 パスカルは『哲学を軽蔑するのは真の哲学者である』と言っている

。これはニーチェの哲学である。如何(いか)に偉大な権威を有する

伝統でも、伝統はこれを受(う)くべきものではないとは彼の考えで

ある。詩の形式も一種の伝統である。

 

19世紀になってから詩の伝統が著(いちじる)しく亡(ほろ)び

つつあるのは近代意識であった。ボードレールは俗人の美に対する

感覚や道徳までも軽蔑した。

 

 

 ココアの油と麝香(じゃこう)と瀝青(れきせい)とで

 

 複雑した香(か)に 熱烈に酩酊(めいてい)する 

 

 

 これは俗人を驚かしたが、今日では普通の詩人の考えるところとなった。

ハイネは唱歌になり、ヴェルレーヌは『 Il pleu-re dans mon coeur 』

(わが心に雨が降る)と歌ったが、これも通俗の感じ方となって

しまった。」《後略》

 

 

(注釈)

 

◇PROFANUS=profanity(冒とく)という英語は、

ラテン語の profanus(「寺院の外」または「寺院の前」)から

きた言葉で、元は儀式での誓いや約束といった意味だった。

それが現在では、宗教的な言葉を不敬に扱ったり、お手軽に使う

ことを意味するようになった。

 

◇ドグマ(dogma)= 1 各宗教・宗派独自の教理・教義。

         2 独断。教条。「―に陥る」

 

◇麝香(じゃこう)= 香料の一。ジャコウジカの分泌物を乾燥したもの。

漢方では興奮・強心・鎮痙(ちんけい)薬などに用いる。マスク。ムスク。

四味臭。

 

◇瀝青(れきせい)=炭化水素からなる化合物の一般的総称。普通、

天然アスファルト・コールタール・石油アスファルト・ピッチなどを

いう。道路舗装用材料・防水剤・防腐剤などに用いる。ビチューメン。

チャン。

 

◇香(か)=1.かおり。におい。現代では、良いにおいをさすことが

多い。「磯の―」2.美しい色つや。光沢。

 

(注釈)は以上。『PROFANUS』の(1)の冒頭の掲載も以上です。

 

【資料】  筑摩現代文学大系33  筑摩書房など

 

 

(g)

 

 ところで『詩』とはいったいなんだろう   吉行淳之介氏

 

 「ところで『詩』とはいったいなんだろう。形式の方から規定しようとす

ると、わが国の場合はとかく曖昧になりやすい。

 

 適当に行を分けて並べてある『詩』と称するものを、行を分けないで句読

点をつけて書き直すと、普通の文章になってしまうことがある。

 

 その文章を、あらためて読むと、十分に『詩的』なものもあるが、

その場合は、わざわざ行を分けるという根性がイヤである。 

 

 行を分ける必然性を、韻律に求めようとした試みも、いろいろ行われた

が、これも日本語の自由詩の場合は大きな無理が伴って、しばしば

コッケイな結果に終わったようだ。

 

 けっきょく、日本語の自由詩は、一行一行の与えるイメージを重ね合わ

せてゆくことに、リズムと行を分ける必然性を求めるのが、最も妥当な

ところとおもえる。そして、その種の詩には、いろいろ秀作がある。

 

 そして私は、以前はこの種のものを書こうとしてダメであり、現在は

読もうとすると抵抗がある。たしかヴァレリイだったと思うが、

詩は舞踏であり散文は歩行であるという意味合いのことを言った。

 

 Aの地点からBの地点に行き着くのに、歩行の場合は当然最短距離を

選んで真直に歩いていく。一方、舞踏の場合は、螺旋(らせん)系に

動いたりジグザグに動いたりするわけだ。手間をかけながら、いろいろ

美しい姿態を誇示する。

 

 一行一行のイメージを重ね合わせていく型の詩を読んでいると、この

ヴァレリイの言葉がなるほどと思われる。そして、若いころの私は、この

『舞踏』を楽しんで味わったものだが、現在では煩わしくなってきた。

 

 とくに、このイメージが甚(はなは)だ個人的なものの裏づけによって

支えられていて、その詩人のいろいろなことを研究しないと十分に

感得できないような場合(そしてこういう場合はすこぶる多い)腹立たし

くなって止(や)めてしまう。それだけの親切心が起こらないのである。

 

 <途中 省略>

 

 甚(はなは)だ独断の言い方をすれば、この場合『詩』とは、現実と

対峙し続ける作家の、心の膚(はだ)ににじみ出た脂汗のようなものを

言うのである。

 

 この脂汗のようなものがない限り、形が散文の形をしていようが詩の形

をしていようが、そういうこととは関係なく、詩とは縁遠いものだと思う。

したがって、1つの理論によって、人生が明快に割り切れる作品には詩は

ない。アジ(=扇動)風の勇ましい文句は、詩ではなくて、宣伝ビラの上に

書かれる文字である。

 

 このように考えると、わが国の場合は、作者の心象風景を描いている

作品に、なまじの詩作品より、はるかに『詩』になっている作品が

多いのも不思議でない。そして、繰り返すが、韻律に行分けの必然性を

求められない日本語の構造からいって、私としてはその種の作品を読む

ことで、よい詩を読んだ満足感を味わってしまうのである。

 

 さらに、おこがましいことを言えば、私は『詩作品』を書くことに

おいては落第だが、詩人としてはそれほど落第とは思っていない。

詩人という存在に対して、劣等感も持っていない。こういう按配で

あるから、依然として私は現代詩に積極的な関心を示すことはないと思う。

 

 

【資料】詩とダダと私と  吉行淳之介 福武文庫

 

 

(h)

 

 『詩の文体』より 小野十三郎氏 (1903年生まれ・詩人)

 

 作家も、詩人も含めて文学者が『文章』を綴るとき、言葉を、言葉の

機能的側面に即してとらえる。

 

 1つは、言葉を、自分の存在を確かめる手立てとして、1つは何事かを他に

伝達する手立てとして。

 

 創造過程では、言葉の2つの機能の相違はそう意識されていないが、

どちらかというと、現代詩人は、自己認識の手段として言葉の機能の方を

重視しているといってよいだろう。

 

 この場合、そうして用いられて言葉(レトリック=修辞法)が相手に伝わる

伝わらないなんて事は、極端に言えばどうでもいいことになる。しかし、

読者の側に立って考えると、そこにまったく取りつく島(しま)のない

ような難解さが生じる。

 

 つまり、自己認識の手だてに執(しゅう)して用いられた言葉の構築は、

読者にとって、それ自身決して正確な文章でもなく、美しい文章でも

ないということになるのである。感傷的な美文調を詩の文体と心得て

いる読者は論外として、日常口語の言葉と言葉の関係に詩のおもしろさを

感じはじめた読者も(私もそのひとりだが)、実際この自己の存在を

追及する言葉の用法、詩の文体には参ってしまう。

 

 では、読者にとって、わかりやすくもあるし、美しくもあるし、

力強くもある詩の文体とはどんなものか。

 

 1つ確実にいえることは、詩人が判りやすく書こうとしたり、美しく

書こうとしたり、力強く書こうとしている姿勢がうかがえる詩の文体は、

伝達ということに即しても、その詩人が詩人であることを証明する何事も

伝達しえていないということである。

 

 詩人の文章法には、わかりやすく書く、美しく書く、力強く書くという

ような言葉の用法はないといってよいだろう。このことは、詩の構造

空間で、要素として大きな比重を持つリズムの問題としても言える。

 

 

 

 ぼくの歌に 韻が 添(そ)えば、ぼくは

 許せぬ うわっ調子とさえ 感ずるしまつだ

 

 

 

 これは西ドイツの革命的詩人、ベルトルト・ブレヒトが『抒情詩に向か

ない時代』という詩の中で言っている言葉である。

 

 歌に韻が添えば歌がかけたと思っていた詩人や、また、韻が添うた

そういう歌を嬉しがっていた読者には、この間の事情は良くのみこめない

かもしれないが、これは今日詩を書いているもののほとんど誰もが持つ

実感である。

 

 七五や五七の形式的な韻でながしている新体詩は言うもでもなく、

日本の過去の叙情詩の文体も大方、判断中止の状態をそのままムードに

すりかえるような作業から生まれている。

 

 そして、それをもとにして詩の作法が生まれ、詩人の文章法が生まれた。

私もまた、その影響をしたたかに受けて詩のようなものを書き出した

しまつだが、本当に詩を必要とした時、私がまず打ち破らなければ

ならないと考えたのは、詩のこういう伝習的な書き方であり文章法であった。

 

 

【資料】私の文章作法  安岡章太郎編 文春文庫

 

 

(i)

 

 俳句は詩である。金子兜太(とうた)氏(1919年生まれ・俳人)

 

「今日の俳句が、感銘に堪(た)えるためには、それらの根本に、芥子

(からし)のみの核のように、1つの中心がすえられなければならない。

それが《詩》というものである。

 

 それではその詩とは何か。最も、これを難しく考えたくない。

詩というものは、もっと平易に、身近にあるものと、常々考えているから

である。いうなればもっと日常的な次元で、詩を受け取ってゆきたいのだ。

 

 

 ロシア映画 みてきて 冬のにんじん 太し

 

 

 古沢太穂(たいほ)の作で、終戦直後のものである。<中略>

作者としては、映画とニンジンの出会いを、そこに提示することによって、

その《感覚の新たな興奮》、つまり《詩》反応を暗示するしかなかった

のであろう。<中略>

 

 結局、この作品からわかることは、《詩》とは、私なりの言い方で、

《詩》反応とでも言うべき、私たちの心的機能(感情を中心とした感覚、

意識などの働き)の反応として、まず考えておかねばならないものである

ということ。

 

 そして、その表現、つまり《詩》の技法の問題が次にある、ということ

である。あとのほうの技法については、すでに書いたので、ここでは

説明は前者、つまり、《詩》そのもの、《本質》のことに限定する。

 

 私はいま、《詩》反応、つまり心的機能の反応という言い方をした。

日ごろ、自分が用いている言葉で言い直せば、それは《詩の本質は叙情で

ある》ということだ。

 

 この《叙情》だが、一般的には、これはおおむね2通りの意味に使われ

ている。1つは《感情の純粋衝動を書く》という本質的な意味。

いま1つは《情感本位を書く》という現象的な意味。

 

 私は、初めの感情の純粋衝動を書くという本質的な意味の方を、

真の《叙情》と考え、これが《詩》の本質だと確信している。

 

 あとのほうは、むしろ《叙情的なもの》といっておいて良いくらい

現象的なことだ。

 

 たとえば、私の好きな小林一茶が、郷里の信州で作った雪の降る

時の作でも、

 

 

 闇夜(やみよ)の はつ雪ら しやぼんの 凹(くぼ)

 

 

 これは《叙情》であり、

 

 

 寝ならぶや しなのの 山も 夜の雪

 

 

 これは《叙情的なもの(情感的なもの)》である。

 

 こちらには、基本的な衝動がないわけではないが、むしろ、そのうえに、

たゆたっている(=漂う)情感を本位に作っている面が大きい。

 

それに比べて前句には、感情の核爆発が認められる。

 

 よく『散文(プローズ)』と『韻文(バース)』を分けて、韻文が

詩である、と言う人がいるが、こういう受け取り方は《叙情的》である。

 

 《詩》は、散文でも韻文でも、そのいずれをも問わず、それらの基本に

あるもので、ただ書き方が違うだけなのだ。もっとも、この書き方の

違いが、実は大きな違いなのであるわけだが、そのことはまったく

別の問題に移る。

 

 『叙事詩』と『抒情詩』という区別にしても同じことが言える。

《詩》は、つまり、ほんとうの《叙情》は、両方の基本になければ

ならない。そのうえに立って、叙事に傾くか、叙情本位に向かうかの

違いが生まれる。そのへんはあたりまえのことのようでいて、意外に

誤解が多いので、はっきりさせておきたい。

 

 要するに《詩》とは、理知の根にあって、やがては理知を燃え

立たせる力ともなる《感情》に根拠を置くということであった。

 

 さきほど、心的機能の反応とか、詩的反応とか言ったのも、それを

動的に捉(とら)えようとしたわけなので、萩原朔太郎の言い方に

従えば「情動」ということになるだろう。

 

 前にも述べたが、言うに言われぬ悩み・・・という言葉があって、

ある年齢の生理を語るとき(情動は)使われるが、この悩みは、

だれにでもあり、また、何も生理のことに限らず、もっと心的な

面でも十分にあるわけなのだ。素朴に言えば、その言うに言われぬもの、

それが人を動かし、表現への意欲をかきたてる、目に見えぬエネルギー

であって、これをしも、感情の純粋衝動という。

 

 だから、逆に言って、つまらない俳句、短歌、自由詩、そして小説、

随筆などを《なぜつまらないのだろうか》という角度から吟味して

みると、結局、この衝動不足に行き当たるはずである。

 

 私たちからみたら、もうわかりきったような事柄でも、少年の純粋な

反応に基づいて書いたようなものから、意外に新鮮なショックを

与えられることがある。

 

 その反対に、事柄は深遠高邁(こうまい)に見えても、衝動不足のもの

は砂をかむように無味で、そのもっともらしさばかりが目立って

困ることがある。つまらない俳句の例をあげてみよう。

 

 江戸諸俳の中の女性といえば、たいていの人が加賀の千代女

(ちよじょ)をあげ、その代表作と言うべき、

 

 

 朝顔に 釣瓶(つるべ)取られて もらい水

 

 

 ・・・という、学校の教科書にもよく出てくる作品が語られる。

 

 しかし、私は千代女の作品を《つまらない俳句》とみる。それは、

たとえば、この『朝顔』のほかにもこんな作がある。

 

 

 夕顔や 女子(おなご)の肌(はだ)の 見ゆる時

 

 蝶々(ちょうちょう)や をなごの道の 跡や先

 

 

 これらをよく読むとわかるが、まず「女子」という言葉が、いかにも

物ほしそうで いやらしい。さらに、夕暮れどき、行水でもしている

女性のことをにおわせようとして、その肌が白くほんのりと見えるときを、

妙に期待させる口吻(こうふん)で語る。

 

「見ゆる時」がそれだ。また蝶と前後しながら歩いてゆく様子なら、

それはそれでよいが「をなごの道の跡や先」と小理屈をつけたところが、

いかにももっともらしい。

 

 ここでも、「をなご」をひけらかされている。

 

 千代女は十六、十七歳から、その俳諧の才能を賞賛された才媛らしい。

これらの作品にも、その才は十分に感じられる。くすぐりによって

大向こうの喝采を得ることを承知しているし、腹(はら)の中で

喝采者を軽蔑しているのである。

 

 むろん、当時の男尊女卑の風潮の中で、地方の才媛が、こうした有頂天と

計算にふけることはよくわかる。むしろ、こうしなければ有名になれず、

また長く有名であることもできなかっただろう。

 

 それはわかるわけだが、それによって、作品の同情票を投ずることは

できない。作品は作品。それは単独で、客観的に、自己を主張するもの

であり、またすべきものなのであるから。

 

 つまり、千代女の作には、感情の純粋なおののき以上に、心情を

俳句のために仕組んでいる面が大きいということである。

純粋衝動がまったくないとは、いかに千代女が憎くても言えない。

 

 いや、つぎのような作には、この人らしい鋭敏な感受と、それに何よりも

おどろきとがある。そのおどろきを偽りもせず、仕組みもしない

ところがある。

 

 

 落鮎(おちあゆ)や 日に日に水の おそろしき

 

 

 

(j)

 

 『霊的に表現されんとする俳句』 飯田蛇笏(だこつ)氏

 

 

 『霊的に表現されんとする俳句』と題された文章を、『ホトトギス』の

大正7年5月号に 飯田蛇笏(だこつ)が書いている。

 

 高浜虚子や前田普羅(ふら)、渡辺水巴(すいは)などの句に触れながら

、蛇笏は書く。

 

 「これらは創作態度において、それぞれ作家が自然および社会人生に

対して、現実そのものをあるがままに見ようとする在来の卑下な

さもしい態度のほかに、人間至上の芸術的能力の美を社会人生に

体現しようとする溌剌(はつらつ)たる勇気あるここの信念と勇気を

ひそめて、偉大にして輝きある背景を具備しつつあるのを明らかに

認める。

 

 かかる信念とあいまって、至上芸術としての詩を、俳句として認める

ことが出来るのである。

 

 ここに一新期を劃(かく)して 霊的に表現されんとする俳句は

所詮(しょせん)斯(か)くなければならないのであって、

彼(か)の粉末に均(ひと)しい徒(やから)に季題観念にとらわれ

すぎた一種の手心地(=気分)を持ってこしらえあげんとする軽薄なる

俳句は、いかに努力するとも結局空しい結末を生むのみであろう。」

 

 蛇笏が『人間至上の芸術的能力の美』を発揮しているものとして、

あげているのは、下記のような句である。

 

 

 雪解川(ゆうげがわ) 名山けづる 響きかな   普羅(ふら)

 

 樹々の息を 破らじと踏む 西日かな  水巴(すいは)

 

 

 蛇笏は、この二句に、至上の、普遍的な芸術的価値を見出し、

歓ぶとともに、『霊的』な人知を超えたものと連なる、遥かに強い

造形の可能性を信じたのであろう。

 

 

(k)

 

 中原中也の詩 小林秀雄氏

 

 「仲原のいい全集が出るという。何か書けといわれて、詩集を読み返す。

思い出が群がり起こる。中原にも『思い出』という詩がある。いろいろ

思い出を歌った末、『ぼんやり 俯(うつむ)き、案じてゐ(い)れば、

僕の胸さへ、波を打つのだ』と言って お終(しま)いにしている。

 

 尤(もっと)もな事だ。単純で真実な言葉だ、と私は思う。

 

 中原は、詩人でありながら、言葉による装飾というものを、まるっきり

知らなかった。生きていく意味を感じようと希(ねが)い、

その希(ねが)いだけに圧倒され、圧倒されていろいろな形を取る心を、

その都度(つど)率直に写生した。

 

 それは、お手本の上に、薄紙を乗せ、お手本の輪郭をなぞる無心な

子供の手つきに似ている。不思議なことだ。それが、天賦(てんぷ)

としか言いようのない彼の詩才であったとは。

 

 私の中原の思い出の中には見つからず、現に、目の前に、私が、

それを見ているとは。例(たと)えば・・・

 

 

 夏の午前よ、いちじくの葉よ、

 

 

 葉は、乾いてゐる。ねむたげな色おして

 風が吹くと揺れてゐる、

 よわい枝をもってゐる・・・

 

 僕は睡(ねむ)らうか・・・

 

  

【資料】 中原中也全集 パンフレット

 

 

(m)

 

 リズム・メロディ・コンセプト  細野晴臣(はるおみ)氏

 

 

 もと、YMO、イエロー・マジック・オーケストラの細野氏が、

おもしろいことを言っている。

 

「現在、音楽は腐(くさ)るほど作られているが、三拍子そろった

ものはあまりない。その三拍子とは、

 

(1)下半身モヤモヤ

(2)みぞおちワクワク

(3)頭クラクラである。

 

 (1)(2)はざらである。(1)は端的にいえばリズムであり、

(2)は和音、メロディということだが、(3)はクラクラさせるような

コンセプト( 新しい考え方、観点)である。

 

 これはアイディア(思いつき、考え)を越(こ)えた 内から突き上げて

くる衝動のようなものであり、私の最も大事とするもので、これを

感じたものには、シャッポ(帽子)を脱いで敬礼することにしている。」

 

 

【資料】隠喩としての建築  柄谷行人  講談社学術文庫

 

 

(n)

 

 メキシコの詩人、批評家のオクタビオ・パスの言葉(1914〜?)

 

 氏は、90年にノーベル賞を受賞している。パスさんは云う。

 

「ある詩が 優れているかどうかは、それが 変質しない程度に 散文を

どのくらい吸収しているか、その量(りょう)で量(はか)ることが

できる。

 

 またその逆もしかりで、優れた散文は詩を含んでいなければならない」

 

 パスさんは、いまも健在なのだろうか。パスさんへの解説には、

「新たな創世記をめざす 詩人のオプティミズム( 楽天主義 )が

 印象的。」とあった。

 

 

(p)

 

 詩論  三島由紀夫氏

 

 「・・・最も今日的なる詩は必然的に詩論であるべきである。単なる

『詩』が現在の刹那(せつな)に考えられようか。

 

 併(しか)し詩論は心情と哲学の方法論に尽きるものではない。

詩論は詩の解説に終わるものではない。

 

 其(そ)は人の手をひいて、更(さら)に深い森、更に理解を絶した

領域に拉(らっ)し去るであらう。

 

 この領域が詩の季節に於(お)いて『今日(けふ)』とよばれるところ

のものである。

 

 ・・・先(せん)づ詩人のメカニズムについて語ろう。

 

 詩人の中核になるものは烈(はげ)し灼熱の純潔である。それは

詩人たる出生に課せられた刑罰の如(ごと)きものであり、その一生を、

常人には平和の休息が齎(もた)らされる老年期に於いても亦(また)、

奔情(ほんじょう)の痛みを以(も)って貫(つらぬ)く。

 

 どこまで この烈しい 純潔に耐へるかといふ試みが 詩人の作品である。」

(後略)

 

 

(s)

 

 『言葉は完全に伝達のための道具になってしまった』福田和也氏

 

(前略)

 

 「無論、かつては、詞と詩の距離は極めて近かった。欧米から導入され

た賛美歌の訳詩の影響を強く受けた島崎藤村の新体詩から、近代音楽

市場質量ともに最大の作詞家でもあった詩人 北原白秋、今では詩人

としての名声はほとんど消えて、作詞作品だけが残っている佐藤 惣

(そう)之助といった、第二次大戦直前までの世代までは、歌詞が

要求される響きと、詩の美学を乖離(かいり=そむき、離れること)

させずに共存させることに成功していた。(中略)

 

 近代以降の社会において言葉は、完全に伝達のための道具になって

しまって、言葉がそれ自身持っていた、厚みや響き、存在感といった

ものが亡(な)くなっている。かつて金銭が、黄金としての輝きや

鋳造された刻印のニュアンス(感覚の微妙な違い)を帯びていたのに、

それが貨幣となり、遂にはただの帳簿上の数字として取引されるように

なったのと同じである。

 

 ゆえに詩の役目とは、言葉を道具としての機能的な有様から解放し、

言葉それ自身の持っている存在感を回復させ、もって人間自身を

その機能的な有様から解き放つ、ということになった。

 

 言葉を機能から解き放つのに、手っ取り早いのは日常的なあり方から

逸脱させることであって、ゆえに彼らの詩は、難解、錯綜(さくそう

=複雑に入り混じる)を極めて、もとの言葉の意味を二重化させ

脱臼(だっきゅう)させ、つまりは訳のわからないものとし、

さらには詩の響きを、発話的な響きとは異質なものとして作ろうと

考えたのである。ここにきて、詩は、詞と けして両立しないものと

なった。」(後略)

 

【資料】 供花(くうげ) 町田康(こう)  新潮文庫

 

 

(t)

 

 『発信型』の人間になろう。 水谷 修(名古屋外国語大学学長)

 

 「世界に向けても、国内の日常に向けても、『受信型』ではなくて

『発信型』の人間になろう。

 

 『発信型』になるには、自分が持っている『良いもの』というのを、自覚

しないことには、何もできないと思うんです『自分達が持っているものは

価値がない』ともし思ったら、それは、もう『発信』はできないのでは

ないでしょうか。」

 

 「遠い外国から日本語を勉強に来ている人たちに、私は何回も

聞かされているんでが、ヨーロッパの人たちが 遠い日本まで来て

日本語を勉強する理由を、『我々が持っていない価値観や知恵が

日本語の世界にはある。だから日本語を勉強するんです』と語って

くれています。

 

 もっと日本人は日本についての自信を持つべきである。経済力だけ

ではないのだと思います。つまり、日本人はもっと日本語のことを

知らなくてはなりません。たとえば、砂の中に入っている砂金を

探す仕事というものが、きっとあるはずだと思うんです。

 

 日本のことだけではなくて、一人一人の人が自分の価値を把握できない

ために、社会に迷惑をかけたりすることがあるんだと思います。

 

 自分に対する誇りが持てるのならば、人に対しても責任が持てるはず

です。現実的にはこうあるべきだというのは、実は難しい。でも一日に

一度は、自分が使っている言葉のことを考えよう。

 

 そういう時に、良い、悪いという『物差し』ばかりではなくて、

その言葉が、どういう結果に結びついたか、自分は十分に自分の

気持ちを相手に伝えることはできたのか、そういう姿勢で反省して

みることは大切と思う。

 

 ブームになっているから、いろんな本を読もうということよりも

『自分の中にある日本語の本のページ』を開いて読みたいものです。」

 

【資料】 ラジオ深夜便

  

 

(R)

 

 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)詩集の解説から。

    現代詩をめぐる問題やその他の、詩人・荒川洋治氏のお話。

 

(前略)

 

 「明治以降の日本の詩は、今日にいたるまで、新しい実験や数々の

意識改革をかさねて、内容のあるものを次々と生み出してきた。

それは、わかりきった話である。

 

 ところがそれらの詩は詩になっている、詩らしい詩がほとんどと

いうか、全部なので、読む人は、詩というものはやはり、それに

ふさわしい言葉上の苦労をして生まれるのだと思ってしまう。

 

 あるいは詩はもっぱら詩人が書くものだと思うようになり、自分が

詩を書くことを遠慮するようになる。どうしてもそうなる。

 

 そんなわけで、萩原朔太郎や宮沢賢治や高村光太郎や中原中也の

詩を読む人でも、自分では詩を書かない。もちろんみながみな書く

必要はない。

 

 ただし、たんに行分(わ)けすれば、言葉は詩になる(それだけでは

だめだけど、そのうちおもしろいことになるし楽しいこともある)。

 

 なのに、書く人は極端に少ない。俳句や短歌などの定型では書くが、

自分のスタイルで、リズムでというと、とたんに弱気になる。

うつむいてしまう。自由詩による自己表現が苦手なのである。

 

 とりわけ『いま』の自分を写す詩は書かない。実篤(さねあつ)の

ように自由になれないのだ。それで、詩を書く人は日本にはほとんど

いなくなった。いても、世間から遠いところでひそかに毎日を過ごす。

表に出ない。詩を書くことはたしかにはずかしいことかもしれない

けれど、詩というものに対しても、はずかしいことになってしまった

のは少し問題だと思う。

 

 詩らしい詩を書いてきた歴史というものがその実りともども、

重く、また確かなものになればなるほど、詩というものが、ぼくらの

回(まわ)りから消えていくことになるのである。これはおかしい

ではないか。

 

 それは、近代詩人たちが、いい詩を書く以上におおきな、もうひとつ

の仕事、詩を書くことは誰にでもできるのだということを伝える仕事

を、果(は)たさなかったためである。自分たちが詩らしい詩を書く

ことだけをめざして進んだからである。

 

 実篤(さねあつ)だけはちがった。実篤のユニークなところは、

自由詩を書くことを日常の習慣にしてしまったことである。詩を

習慣にできるという可能性を開いたことなのである。日本で最初に

それを行ったのが実篤である。

 

(注釈)

 

ユニーク【unique】= [形動]他に類を見ないさま。独特なさま。

「―な発想」(注釈)は以上。

 

 思ったことを書く。日記でもつけるように。誰に遠慮することもなく、

言葉や表現を特別に気にかけることもなく、率直につづる。それが

実篤の姿勢。日本ではめずらしい。(中略)

 

 実篤は、自分が詩だと思って書くものは、詩だと思った。詩という

ものはこういうものだという一般的な考えとは合わないのである。

だから彼の習慣はどこまでも続く。

 

 ところがいっぽうの詩らしい詩というものは、考えを持つために、

またその考えを日に日にあらためたり、洗い直していくために、

習慣にならない。習慣から遠ざかり、あるものは特別なものに

なっていく。詩を書くことが特別なことに変えられていくのだ。

 

 だが、詩に必要とされるいくつかの重要な準備もせず、ただただ

言葉を無心に並べてきた実篤の詩のほうが、詩を書く習慣を

ひとつの文化として残すことができる。これはめざましいことである。

詩の大切な仕事である。

 

 だからぼくは実篤の詩は、詩らしい詩を書いたいちばんたかい

ところにある詩人たちの作品と同じレベルにあるし、また見方に

よってはそれを超(こ)えているのではないかとさえ思う。  

 

 

 次ぎ次ぎと花をつくっていた

 いかにも楽しそうに

 見るひまもなくつくるのが嬉(うれ)しいのだ  

 人間はそう思った               (『美神と人間』) 

 

                         

 『美神』が『人間』の世界に、花をもたらしていくようすをうたった

ものだが、『見るひまもなく』というところに目をとめたい。実篤は

それこそ、自分で書いた詩を『見るひま』もなく次々とつくった。

習慣というものに支(ささ)えられて。

 

 だが実篤ではない近代の詩人たちはこのような習慣をぼくらに伝える

ことはなかった。そこに、日本の詩の、ひとつの歴史的なまずしさが

ある。ひよわさがある。

 

 こういう詩を最初に書いた実篤という詩人はやはりただならぬ存在

であると思う。こういう詩が書けたのは、実篤が文学者として個人の

場で、社会、集団の場で、時代に先立ついろんなことをしてきたから

で(『新しき村』運動もそのひとつ。ぼくは友人たちとこれまでに

五回ほど埼玉の西の村を訪ねた)、そこから詩が生まれる。

 

 実篤の詩はどんな単純なものでも、余人には求められない風格がある

のはそのためだ。だからまねをして書けば、かなりまねることはできる

が(冒頭のように)、どうも他の人の手では、実篤の詩とは微妙に

ちがうものになる。

 

 詩はそれぞれの人のもとでつくられる。

 

 それぞれが自分の詩を書けばいいということを実篤の詩は伝える。

それはこれからの時代の詩をつくるためにたいせつなことであり、

ひとつの指標である。その意味で実篤はいつも『新しい人』だ。」

 

以上が、詩人・荒川洋治氏の『解説』の言葉です。

 

  

 実篤(さねあつ)の詩には、『花も』という短い詩があります。

 

 

  花も    

 

 花も咲かないではゐられないだらう。

 

 こんな天気では。

 

 

【資料】武者小路 実篤 詩集   角川文庫

 

 

◇実篤 記念館 HP              

 

 

(U)

 

 茨木(いばらぎ)のり子氏の『詩のこころを読む』から。

 

 

 「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。

いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情を

やさしく誘いだしてもくれます。どこの国でも詩は、その国の

ことばの花です。」

 

 「紀元前の中国の思想家、老子とか荘子という人は『天と地の精気

(=生命根源の力)が凝(こ)って、露(つゆ)となるように、人の生命も

また、そのようなものである』という考え方をしておりました。

これはまた、超大級のおおらかさ。でも、私はこのような思考法が

大いに気に入っているのです。」

 

 以上は、茨木のり子氏の『詩のこころを読む』からの言葉です。

 

 日本経済新聞(2006年5月7日)に『茨木のり子の詩と思索』という

詩人の小池晶代さんのエッセイ(以下)が掲載されていました。

 

「今年、二月、くも膜下出血で、詩人の茨木のり子さんが亡くなった。

七十九歳。雑誌の追悼特集号に載った写真を見ると、まさに戦後

現代詩の『原節子』。

 

 詩も清潔な美貌を誇るもので、陰や謎がない。だが、十九歳で

終戦を迎えたひとである。

 

 その言葉には、木綿のシャツが風に翻(ひるがえ)るような清潔な

感動があり、弱き心を抱(いだ)くひとを、底のほうからざっくりと、

さりげなく救(すく)う力があった。」 (後略)

 

 ぼく(Z)も、茨木のり子さんのご冥福をお祈りいたします。

 

茨木のり子氏 - Wikipedia

 

「二十歳の頃」 - Ibaragi Noriko

 

 

【資料】 詩のこころを読む  茨木のり子 岩波ジュニア新書

 

 

◇以上で、このエッセイは終了です。お役に立てれば幸いです。(^^)

 

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