リアリティについての明確な定義した養老氏のこの発言以上の、

優れたリアリティの定義を私(Z)はほかに知りません。

 

 2003年の流行語大賞の『バカの壁』の著者 養老孟司(ようろう

たけし)氏の、宮崎アニメについてのお話が、アート(芸術)論と

しても、芸術文化の活性化の方向を決定し予見させるほどに優れている

と、私には思える。

 

(聞き手)

「私たちは 夢の中で現実では想像つかないようなスケール感やスピード

感を体験する

ことがありますが、まさに宮崎さんの世界には 自分がそうやって現実

から解き放たれた

ときの感覚を思い出させてくれるような ところがあるように思います」

 

と、こんな聞き手に対して、養老さんは語る。

 

(養老氏)

「そうですね。しかも まったく無理がない。作り物という感じが 全く

しないんです。

でも僕はそれが当たり前だと思います。宮崎さん流にいえば『あって

いいんじゃないかよ』

って。本来それをリアリティというんです。だから当たり前でないと思う

ならば、それはアートが外(はず)れすぎたんですね。

 

 リアリティについて 古い言葉でいえば、真善美なんです。より本当で

より正しくてより美しい。

それがリアリティの意味です。第1、リアル(real)は 現実という意味

ですから、その現実(real)を

抽象名詞にした リアリティ(reality)って どういう意味なの?って、

僕は 学生に よく聞くんですよ。

現実という言葉の 抽象名詞の リアリティって、一体なんでしょうって

(笑)そんなのは

おかしな名詞であって、実は リアリティを 現実性とか そういうふうに

訳したから おかしくなってしまうわけです。

具体的に訳すなら、

真善美と訳したほうがいい。人は本当のもの、正しいもの、美しいものに

惹(ひ)きつけられる。

それをリアリティというんです。だから 現実(=リアル=real)に 対照

する英語は

アクチュアリティ(actually)、日本語では 日常性ということになるん

ですが、

そこのところをなかなか 気づかないで混同しています。

 

 そうなってしまうのは 現代が 素朴実在論( 外界が 意識から独立に

存在している

と見る 日常実践の立場 )が 非常に強い世界だからなんですが、どういう

意味かというと、

物体は 確実に 存在しているが、後(あと)は 抽象だと思っている。特に

科学をやっている人たちは

そう思っています。けれども、よく考えてみると 現実なんてありはしない。

なぜかというと

すべては 脳が 把握していることであるから。だから 僕は 唯脳論を

唱(とな)えています。

要するに 脳に映ってこなければ 何もないことになる。しかも、もっと

極端に、脳は

何があるもので 何がないものかということを勝手に決めているのです。

それを現実感と僕は呼んでいます。

つまり誰だって 物体の存在は 否定しませんが、それはどうしてかという

と、脳は 絶えず

自分の中を 動いているものに対して 現実感を与えるという癖(くせ)が

あるからなんです。

だから物体とは何か ということを 脳から定義すると 非常に簡単で、

人間の感覚は

五感しかありませんから、ある対象が 五感のすべてに 訴えかけるときに

それを物体というわけです。

つまり、目で見て、音でとらえて、感触、嗅覚、味覚でとらえる。

そういうものが物体ということになる。

 

<中略>

 

 僕は、英語を持ち込んで、五感から入る物体的なものを、アクチュア

リティ(actually=日常性)と呼んで、

それ以外のものをリアリティと呼んだほうがいいと思います。

 

 ですから想像的な世界も リアリティであり、宮崎アニメは 典型的な

リアリティなのです。

それぞれの脳が、実は『情報』に対する 重み付けなんです。現実という

ことは、重みをつけている

ということなんです。・・・それを具体的に判断できるか、その人が何を

現実と思っているかは、

その人の行動が、それによって影響を受けるものは すべて その人に

とって 現実ということなんです。

だから、僕は、人の数だけ、現実はある と考えます。アニメだから、

御伽噺(おとぎばなし)だから、

それは 作り物でしょうというのは、多分違うんです。それをいうなら、

世界そのものが作り物ということになりますからね」

 

(聞き手)

「それにしても、この映画は観(み)終わった後、親しい人に『あなた

は観てどうだった』と

語り合いたくなるような映画だと感じました」

 

(養老氏)

「感性の世界は、そういう面を持っているんです。つまり余韻が残るん

です。

僕らは理屈の商売だから、物事を綺麗に切っていかなければならない。

しかし、

綺麗に切ってしまうと、それ自体は綺麗だけれど、余韻が残らない。

実も蓋(ふた)もない

ということになってしまうんですが、アートの良いところは、そういう

余韻が残るところです。1枚の絵でも、

そこから いろいろなことが 引き起こされてくるでしょう」

 

 

 以上の、大変貴重な、養老さんの お話は、『千と千尋の神隠し』を

鑑賞したあとのインタビュー記事でした。

 

 多少は難解ですが、さすが東京大学の名誉教授、日本の最高峰の知性の

お話で、理路整然として

僕には、芸術(アート)のリアリティとは何か、その価値とは何か、そんな

難問に、1つの説得力のある答えを 提示してくれている気がします。

 

もっとも、信頼している科学でさえ「暫定的な答えであり、未来にはその

変更もありえる」といわれていますから、絶対的な

真理などは、人間には なかなか、わからないのかもしれません。

 

 養老氏が説く『唯脳論』について、氏が語る若干の文章をご紹介します。

 

「人間は生まれてから死ぬまで、常に変わっていく。『変わらない私』を

前提とした

西欧近代自我は、脳=意識が生み出したフィクション(つくりごと)に

過ぎない。

わたしが書こうとした そのことは、『諸行無常』という短い言葉の中に

すでに 言い尽くされています。

 

あるいは無我というのも同じ意味でしょう。私が書いたものが、お経に、

近づいていったのは、

日本語を使って書いたからでしょう。日本語の抽象的な語彙の多くは、

もともと

経典から出ています。『意識』『心』『愛』『自由』『時間』といった

言葉は すべて、梵(ぼん)語を

訳したものです。みなさん、あまりご存知ありませんが、仏教は相当

高度な抽象思考を持っているんですよ。」

 

【資料】

キネ旬ムック『千と千尋の神隠し』を読む40の目 キネマ旬報社 

仏教入門特集 文芸春秋 2004年 4月号

 

 

 

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

 

 

吉本氏は、夏目漱石の全集を5,6回は読み返したという。

氏の下記のお話を聴くと、私(Z)も

漱石も、真のリアリティを求めて、格闘していた 巨匠だったと思う。

 

「ぼくの知り合いで、欧米白人と結婚した女性がいます。話の折に、

『むこうの男は そんなに いいかね』

なんて無遠慮に訊(き)くと、こんな答えが返ってきた。

『むこうの男が、

日本の男と比べて、とくに素敵とは思わない。でも、1つだけ、

逆立ちしても

かなわないなと思うことがある。それは普遍性というものへの確信よ』

 

 普遍性への確信というのは、文化の違い、人種の違いを超えて、

人間のあり方としての

共通性を信じるということです。そういう信仰にもとづいて、

文化も創造するし、恋愛もする。

それは日本の現実とは ほど遠いものだというのです。

 

 普遍性への信仰は、裏腹に、特殊性への蔑(さげす)みをともないま

す。西欧のインテリと話をしていると、

なんだ、こいつ、ものわかりのいい顔したって、一皮むけば、日本人を

野蛮な者としか見ていないじゃないか。

そう感じさせられて鼻白むことが、しばしばあります。

 

 漱石が英国で直面したのは、そういう世界でした。

 

漱石はロンドンで、『普遍性』という相手の土俵に立ち、自分を相対化し

、返す刀で 相手をも相対化するような、

熾烈な本質追求を試みたのです。これは大変な作業です。独(ひと)りで

背負うには、荷が重過ぎる。

だから、いっぱい背負って、いっぱいわからなくなった。いっぱい

わからなくなっても

なりふりかまわず、進んでいったのです。その姿は、傍(はた)からは、

発狂した、と見えた。

その七転八倒の軌跡が、『文学論』です。」

 

 

○書簡から

 

明治39年10月26日付、生徒の鈴木三重吉(みえきち)への書簡から

 

「僕は一面に於(お)いて、俳諧(はいかい)的文学に出入りすると

同時に、一面に於(お)いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な

維新の志士の如(ごと)き精神で文学をやりたい。

 

それでないと、なんだか難(なん)を捨(す)てて、易(い)につき

劇(げき)を厭(いと)ふて、閑(かん=暇ひま、無事)に走る

所謂(いわゆる)腰抜け文学者の様な気がしてならん」

 

 

明治39年11月16日付、編集者の滝田樗陰(ちょいん)への書簡から。

 

「後世(こうせい)に残る残らんは、当人たる僕の力で左右する

訳(わけ)には行(い)かぬ。しかし、いやしくも文筆を持って

世に立つ以上は其(その)覚悟である。」

 

 

【資料】文芸春秋 平成16年12月 臨時増刊号

 

 

 

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

 

 『東京タワー』など、たくさんの恋愛小説の書き手、2004年の直木賞

受賞の 江國 香織さんは、エッセイ集の『泣かない子供』で、

『 なぜ書くか 』の中で、リアリティについて語っている。

 

「 人が どう見ているかは ともかくとして、私は いつも リアルなもの

を書いていたいのだ。

リアルじゃないと 小説は つまらないと思う。私に とってあらゆる 小説

はファンタジーなのだ。

ファンタジーというのは 河合隼雄さんの 言うところの『 たましいの

現実 』であり、

それが私にとっての リアリティーだと思っている。したがって、それは

『 ありそうなこと 』か どうか、

あるいは『 たくさんの人が さもありなんと うなずくこと 』かどうか、

と なんの関係もない。

そういうのは 錯覚( しかも みんなが 一っぺんにする錯覚 )

だと思う。

リアリティー というのは もっと個人的なものなのだ。そういう 個人的

な真実を信じられなく

なったら おしまいだ。他に 信じられるものなんて 何もない。と

少なくとも 私は 信じている 」

 

 このくらいの 確信というか思い入れがないと、江國さんの ような

優れた作品は書けないとも思う。

(といっても、まだ、あまり作品を拝読していませんが)

虚構を《 虚構としての 現実》として楽しむことが、人生や心を豊かに

するのだと、私(Z)も強く同感します。

 

 

 

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

 

「宮崎アニメのヒットの秘密は、プロデューサーの鈴木敏夫の人材活用術」

というNHKの『プロフェッショナル』の放送がおもしろかった。

 

宮崎アニメが、どれだけ人気があるかというのが、数字で見ればわかる。

日本の映画の歴代興行収入では、『千と千尋の神隠し』が、興行収入

304億円、観客動員2300万人でトップ(1位)という金字塔を打ち

立てている。2位が『タイタニック』で260億円、3位が『ハリー・

ポッターと賢者の石』で203億円、4位が『ハウルの城』で196億円、

5位が『もののけ姫』で193億円で、なんとベスト5に、宮崎アニメが

3つも入っているのです。(^^;)

 

そのすべてに、鈴木氏はプロデューサー(producer=制作責任者)と

して深く関わっている。

 

その仕事は、映画の企画から、予算調達、人集め、スケジュール管理、

宣伝・戦略まで、いわば映画の始まりから終りまで、すべての責任を

負(お)う、その責任者です。

 

『千と千尋の神隠し』で、「少女が、生きる力に目覚めていく物語に

しよう」と提案したのもスタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫

(としお)氏(57)だった。

 

鈴木氏のもとでは約千人の人たちが動くのだそうだ。それぞれの人を

『やる気』にし、その力を最大限に引き出すそうで、鈴木マジックと

呼ばれているそうだ。

 

「(作品は)やっぱり楽しいものにしなければいけないんだよ。

そのためにはまず第一に自分が楽しまければいけないわけよ」

 

鈴木氏には、大切にしている流儀があるそうだ。「仕事を仕事じゃなく

するのが得意なんですよ、おれ。仕事だと思っていると、やってられ

ないもん。ばかばかしくて。でしょう」と語る鈴木氏。仕事を、みんなで

楽しむ『祭り』変えるのだそうだ。

 

鈴木氏が手がける映画の予算は数十億円。ひとつ判断を誤(あやま)れば、

巨額の損失を生む。その仕事には、猛烈な重圧は鈴木にのしかかる。

 

そんな鈴木氏が心に決めていることがある。それは「自分は信じない。

人を信じる」ということ。「自分を信用してない。自分を信用しては

いけないと思っている。1人の人間が考えることっていうのは、たか

だか知れているという考えなんですよ。これ、誰であっても」と

真剣な眼差しで語った。

 

目を輝かせる子どものように、すてきな笑顔の鈴木氏だった。

 

以上、NHKの『プロフェッショナル』(2006年4月6日放送)より

 

 

 

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

 

作家の村上春樹がほとんどレイモンド・カーヴァーの翻訳や紹介をして

いる。そのカーヴァーが『書くことについて(オン・ライティング)』

という本(残念ながら絶版です)を書いているそうだ。

 

その本を中条省平氏が『小説の解剖学』という本で紹介しているのだが、

その内容は、作家に限らず、創作を目指す人には、勇気のわくような

言葉だと思った。以下は『小説の解剖学』から。

 

「作家は命がけの商売で、常に自分は明日から書けなくなるんじゃないか

という強迫観念と闘いながら生きている存在です。レイモンド・カーヴァー

の書くことについて(オン・ライティング)』には、そういう作家たちが

どんなふうに危機を乗り越えるかという具体的なケースが書いてあって、

とても面白(おもしろ)い。

 

カーヴァー自身が例を挙げているんですが、『アイザック・ディーネセン

はこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます。

と』。これは三島由紀夫タイプですね。エクササイズ(=練習、運動)

として毎日ちょっとずつ書くことが必要です。(中略)

 

基本的に一字一句きっちりと書くことからしか小説は生まれません。

 

そして、希望もなく絶望もなく、というのは、作家がものを見つめるため

には、ものすごく高揚していても見きれないし、まったく落ち込んでいても

見きれないということです。

 

『いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の壁の横に貼っておこう

と思う。壁にはいま何枚かのカードが貼ってある。《基本的な正確さを

持って記述すること。それこそが文章を書くことにおける唯一のモラリティー

[morality=道徳性、倫理性、教訓など] である》』。

 

この言葉はエズラ・パウンドのものですが、非常に重要なことです。それだけ

が唯一のモラルです。」

 

ーーー

 

【資料】(敬称略)

 

『作家養成講座』   若桜木 虔(わかさきけん) KKベストセラーズ

『芥川龍之介の復活』      関口安義・著  洋々社

『芥川龍之介・その生涯と文学』 山梨日日新聞(1991年9月25日版)

『文豪ナビ・芥川龍之介』        新潮文庫 

『芥川龍之介』     関口安義・著  岩波新書

『小説の自由』     保坂和志・著  新潮社

『書きあぐねている人のための小説入門』 保坂和志・著  草思社

『坂口安吾全集・14』         ちくま文庫

『そうだ、村上さんに聞いてみよう』 村上春樹・著  朝日新聞社

『人生読本・第6巻・小林秀雄』   佐古純一郎・編  角川書店

『日本論』            坂口安吾     河出文庫

『小説の解剖学』        中条省平     ちくま文庫

『作家の値うち』      福田和也     飛鳥新社

『サライ・夏目漱石』    2005年6月2日号

『対談集・作家はなぜ書くか』  安岡章太郎

『文学とは何か』       加藤周一  角川新書 角川書店

 

ーーー

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   http://macky.nifty.com/cgi-bin/bndisp.cgi?M-ID=tankyuu

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(2)http://geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=z_gogo_hiroba1234

 

◆著作権は ご本人に 帰属致します。引用は 著作権法 以内と考えます。

 

 著作権法 第三十二条。公表された著作物は、引用して利用することが

 できる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するもので

 あり、かつ、報道、批評、研究 その他の引用の目的上 正当な範囲内で

 行なわれるものでなければならない。

 

* 詩と散文の広場 *

 

 

 

小説は『飽和している』という感覚があるはずで(その感覚がないと

困る)、そこから逸脱しない限り、小説を書く意味はないと考えること

ーー。そういう姿勢がとても大切で、『新しさ』というのは、結果として

後から誰かがそう評価するだけの話、ぐらいに思っていればいい。

 

 では、どうすれば『逸脱』できるのか?カギを握っているのは

『身体性』だと思うが、その話は後でもう少し詳しく話します。」

 

 

「本当の意味での『小説語』で書かれた小説は、最初のうちはスラスラ

読めない。本来、小説とは新しい面白さをつくりだすことで、そのため

には『面白い小説とは何か?』ということをつねに自分に問いかけながら

書かれるべきものなのだが、そうして生まれた新しい面白さというのは、

新しいがゆえにそう簡単に読者には伝わらない。(中略)

 

『面白い小説』のほめ言葉として、よく『一気に読んだ』というのが

あるけれど、だからそれはほめ言葉ではない。そういう小説は、

すでにある面白さ、すでに読者が知っている面白さに則(のっと)って

(=従<したが>って)書かれているわけで、これは私の考える小説

ではない。

 

 それに、そもそもの話、『一気に読める』ということは、早く

その小説の世界から出てしまうということで、本当に面白い小説なら、

そんなに早くその世界から出たいとは思わないはずではないか。

 

『一気に読める』という評価の仕方は、どこかサラリーマン的で、

読書にまで、《生産性》や《課題を早く仕上げる》という社会的

価値感が入り込んでしまっている響きがある。そういう価値観が

いっさい揺らがないから『一気に読める』。当然、人生観や世界観が

変わることはなく、一気に読んで、その満足感や達成感なりを持って、

また翌日の仕事に戻っていく・・・。

 

 まあ、そういう読書も一概(いちがい)に否定されるべきではないが、

これではその読書は、読み手の内面的経験はまったくなっていない。」

 

 

「あえて書き手に引き寄せて言うなら、テーマは書く前に考え

ておくようなことではなく、書く過程で『そういえば自分はこんな

ことも考えているんだな』と考えるくらいの程度で、それはつまり、

書きながらいろいろなことを考えるというくらいの意味でもある。

 

テーマのようなものを事前に設定してしまったら、作品の持つ自在な

(融通無碍ゆうずうむげな)運動を妨げることになってしまう。

 

作品には作品固有の運動がある。言葉を換(か)えれば、それ固有の

運動を持ったときに、いま書かれているものが《作品》となる。」

 

 

「この本では『小説とは何か?』について、かなりしつこく考えて

いくつもりだ。なぜなら、『小説を書く』とは、『小説とは何か?』を

つねに考えながら進行していくべきものだからだが、ここで『小説とは

何か?』について、最初の答えが見つかったはずだ。

 

それは、小説とは、《個》が立ち上がるものだということだ。べつな

言い方をすれば、社会化されている人間の中にある《社会化されて

いない部分》をいかに言語化するかということで、その社会化されて

いない部分は、普段の生活ではマイナスになたったり、他人から

怪訝(けげん)な顔をされたりするもののことだけど、小説には絶対に

欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ。」

 

 

【B】すぐれた小説の条件、その1

 

「ストーリーとは何か?小説のストーリーを考えてみる前に、

『おもしろい小説』とは何かを考えてみる。まず、私にとって

『おもしろい小説』とは、最初の一行を読んだら、次の一行も読みたく

なり、その行を読んだらまた次の行も読みたくなり…という風に

つながっていって、気がついたときには最後の行まで読んでいた。

−−そんな小説のことだ。(中略)

 

さて、そこでストーリーなのだが、ストーリーとは、読者の興味を

最後までつなぎとめておくための《ひとつの方法》なのだと思う。

ただ、そういうストーリーをつくるのはものすごく難しい。理由の

ひとつは、20世紀後半から21世紀へと至った今、輪郭のはっきり

したストーリーというのは出尽くしてしまっているということだ。

(中略)

 

輪郭のはっきりしたストーリーはダイレクトに心に飛び込んでくる。

そのメカニズムがどうなっているかの説明は評論家か心理学者に

任せるとして、輪郭がはっきりしているということは、口頭で伝える

ことができるということで、人物造形とか細部の出来不出来なんか

問題にならない。私は、ストーリーとは本来そういうものだと思って

いるが、はたして今、こうした輪郭のはっきりしたストーリーが

書けるかどうか。

 

あらゆる物語のパターンは、きっと旧約聖書の中あり、その後書かれた

物語は多かれ少なかれ、そのバリアント(変奏)だろう。《読者をアッと

いわせるような波乱万丈のストーリー》という惹(ひ)き文句の長編

小説があったとしても、プロットごとに見ていけば、すべて既成の

組み合わせというものがほとんどのはずだ。(中略)

 

人がストーリーの展開をおもしろいと感じられる理由は、展開が予想の

範囲だからだ。その範囲をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想

以前の『???』しか出てこず、面白いどころか『意外だ』と感心する

ことすらできなくなる。(中略)

 

ストーリー・テラーは、結末をまず決めて、それに向かって話を作っていく。

(中略)

しかし、なぜ、それが小説でないのか?まず私は『小説とは書きながら

自分自身が成長するもの』あるいは『書く前の自分より書いた後の自分の

ほうが成長できるもの』だということを言ってきた。結末が書く前から

決まっていたら、書きながら考えて成長することができない。

 

もちろん結末が決めてあっても、(1)資料を調べたり、(2)細部の

人の心の動きを考えたりするのだから、それなりに成長はするけれど、

それは小説を書くという行為そのものによる成長ではなくて、書くと

いう行為の周辺で行う作業による成長でしかない。とくに(2)の

細部での人の心の動きは、動きといっても行き着く先が決められている

動きでしかないものだから、本来のダイナミズムを欠いた予定調和的な

動きにならざるをえない。」

 

「小説と言うとストーリーという抜きがたい思い込みがある理由は、

小説の多様性を受け入れることが出来ないからだと思う。(中略)

 

 音楽や絵画のことを考えてみてほしい。(中略)

 

 たとえば絵には、ダ・ヴィンチ、ゴヤ、ブリューゲル、モネ、

ピカソ、(中略)一般の人たちは『いい・悪い』ではなく、まず

その絵の感じが好きか嫌いか、受け入れやすいか受け入れにくいか

でその絵に接していく。

 

 音楽だって同じだ。ベートーヴェンとドヴュッシーは『いい・悪い』

ではなく、好きか嫌いかだ。ジャズもあり、ロックもあり、民俗音楽

もある。(中略)

 

しかし、小説になるとみんなその多様性や固有性を理解しない。なぜか?

 

 絵がキャンバスに描(えが)かれた《物質》であり、音楽が楽器

によって鳴らされた音という《物質》であるのに対して、小説は

《抽象》であるからだ。

 

 物質は感覚によって享受されるけど、小説=文字は感覚を

経(へ)ないでいきなり抽象によって受容される。私が強調する

『風景』も、前節で書いた流れの緩急も、すべていったん抽象と

して入力された後の再出力(再イメージ化)のようなものだ。

 

 つまり、小説は物質性がなく、いきなり抽象だから、理解するために

脳にとってかなり大きな負担となる。その負担ゆえに、小説家もまた

画家や音楽家と同じように多様な背景を持ち、多様な身体を持っていて、

それによって書いているのだということを理解しそびれる。ないし、

そこまで気が回らない、ということではなかと思う。

 

 日本の文学史を見ても、私小説が流行するかと思えば、次に

プロレタリア文学が流行(やは)り、戦後になると実存主義になって

・・・と、知性がおかすとは思えない奇妙に大きな振幅があるが、

それもまた知性が知性であるがゆえに、大きな負担をつねにかかえて

《抽象》を相手にしているからではないかと考えれば納得できる。

 

 ま、それはともかく、小説の多様性をごく自然なことだと感じて

いる人は、身の回りだけでなく文芸評論家の中にもほとんどいないが

(いや、むしろ、評論家のほうこそいないのかも知れないが)、

大事なことは多様性であり、ストーリーは最初の一行から最後の一行

へと至(いた)る推進力の《ひとつ》であり、小説の推進力はいろいろ

あることは、つねに考えていてほしい。」

 

 

「小説のひとつの理想は、最初に解決不可能と思える問題(ないし対立)

を提示して、それを解(と)くことだ。

 

作者にとって『小説を書くこと』とは『問題を解く』こととイコールに

なる。当然、読者にとっても『小説を書くこと』は『問題を解く』ことと

イコールになる。(中略)

 

数学の文章問題を思い出してほしいのだが、もともと問題を解くという

ことは、答えに至るプロセスを辿(たど)ることで、ただ『8』とか

『25』とかいう答えを知ることではない。数学の文章問題で、ただ

ポコンと『8です』と言う人のことを問題の解き方がわかっっているとは

誰も言わない。哲学だってそうで、2章でも書いたように、

哲学書は私たちが日常雑に使っている概念や論理の組み立て方を1つ

ひとつ検証して、再定義しながら結論(この場合固有の世界像と言うべき

だろう)に至るようにできていて、『世界とは××である』『人間の

本質は○○である』というセンテンスだけをお題目のように暗記しても

意味がない。

 

そして小説も同じことで、読者が日常使っている言葉や美意識と完全に

重なり合わないものを積み重ねていく、そのプロセスの中にしか答えはない。

が、しかし、あいにくそういう小説は理想と言いつつ例外で、私は自分の

『カンバセイション・ピース』をそういうつもりで書いたのだが、他に

思いつく小説といったら、ドストエフスキーの小説くらいだろうか

(ドストエフスキーがいれば十分だが)。」

 

◇ストーリーテラー【storyteller】= 話のじょうずな人。特に、

筋の運びのおもしろさで読者をひきつける小説家。

 

 

【C】すぐれた小説の条件、その2

 

「ここで2つ目の小説の条件が出てくる。つまり、小説は《細部》が

全体を動かすという独特の力学を持っている表現形態なのだ。この本で

人物と風景についての章をストーリーより先に持ってきてあるのは、

細部と全体とのこの関係があるからで、小説においては細部はふつう

いわれる『細部にすぎない』ものや『たかが細部』にとどまるもの

ではない。小説は、細部こそが全体を決めていくのだ。

 

これもまた、4章で引用したベンヤミンの『物語作者』の中で

言われていることだが、物語とは夜、車座にすわった人たちによって

口承で語られた歴史を持っている。つまり、物語とは、耳で聞くことを

本質にしている。

 

それに対して小説とは、1人で目で読むものとして発達してきた。一人

ひとりの孤独な時間の中で、ゆっくり目で読むことによって、文字として

書かれた複雑な空間的叙述・時間的叙述が読み手の心の中に何重もの層と

して積み上げられたり、内側に折り畳まれたりするプロセスそのものが

小説という表現形態なのだ。

 

読み終わった後に、『これこれという人がいて、こういうことが起きて、

最後にこうなった』という風に筋をまとめられることが小説(小説を

読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説と

いうのは読んでいる時間の中にしかない。読みながら、いろいろなことを

感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したり

するものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、

読み手の実人生のいろいろなことと響き合うのが小説で、そのために作者は

細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えること

よりもぜったいに価値を持つ。

 

技術なんて何冊もの小説を読んでいれば誰でもそこそこ身につくもので、

小説の技術なんて『そこそこ』で十分なのだが、小説というもののイメージ、

そして、つまるところ『小説とは、どうしてこういう形をしているか』という

問いかけを忘れてしまったら、形だけは小説だけど、内側で運動するものが

何もないものしか生まれない。くり返すが、遠回りと見えることだけが

小説に至る道なのだ。」

 

 

◇保坂和志氏の公式サイト

http://www18.jp-net.ne.jp/rb/0001/gabun.html

 

ーー目次ーー

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

7.村上春樹氏の文学観。村上氏は「フランツ・カフカ賞」の受賞も

  決まり、ノーベル文学賞も最有力候補とか。

8.『文学者の覚悟』を説く、大評論家、人生の達人の、小林秀雄。

9.小説のリアリティについて、三島由紀夫氏と中村光夫氏の対談。   

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

ーー本文ーー

 

 

6.坂口安吾(あんご)(1906〜1955)の文学観。

 

「私の考えによれば、文学の作用はつねに反逆的、闘争的、破壊的

である。文学の精神は現実へ反発する時代創造的な意思であると

述べたが、時代創造的な意思は、文学においては反逆的、破壊的な

形に於いてあらわれる。

 

進化の過程において個人はつねに反社会的、すなわち破壊的闘争的な

形を示す。建設はつねに社会的、科学的なものである。文学の破壊作用は

破壊によって内包の増大を促し、建設のほうが的役割を務めることに

よって足りる。

 

 文学は常に問題を提出する。文学そのものに解決はない。なぜなら

人間の血と肉は歴史の終局に於いて解決すべきものであって、概念の中に

解決すべきものでない。」

 

以上は、坂口安吾・著の『新らしき文学』より。

 

「散文に二種類あると考えているが、一を小説、他を作文とかりに

言っておく。小説としての散文の上手下手は、所謂(いわゆる)文章

ーー名文悪文と俗に言われるあのこととは凡(およ)そ関係ない。所謂

(いわゆる)名文と呼ばれるものは、右と書くべきとき場合に、言葉の

調子で左と書いたりすることが多いもので、これでは小説にならない。

漢文日本にはこの弊害が多い。

 

小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅(しんせん)等に

よって文章が決定づけられ、同時に評価もされるべきものであって、

文章の体裁が纏(まと)まっていたり調子が揃(そろ)っていたところで、

小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、

書くべき事柄を完膚(かんぷ=徹底的に)なく『書きまくる』べき性質の

ものである。

 

私は、作者の観察の深浅(しんせん)、態度等(など)が小説としての

価値を決定するものだと述べたが、部分部分の観察が的確であっても、

小説全体の価値はまた別であろうと思う。

 

小説は、人間が自らの癒(いや)しがたい永遠なる『宿命』に反抗、

あるいは屈服して、(永遠なる宿命の前では屈服も反抗も同じことだーー)

弄(もてあそ)ぶところの薬品であり玩具(がんぐ、おもちゃ)であると、

私は考えている。小説の母体は、我々の如何(いかん)ともなしがたい

喜劇悲劇を持って永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。

 

笑いたくない笑いもあり、泣きたくもない泪(=涙)もある。奇天烈

(=奇妙きてれつ)な人の世では、死も喜びとなるではないか。

知らないことだって、うっかりすると知っているかもしれないし、よく

知っていても、知らないことだってあろうよ。小説はこのような奇奇怪怪

な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向かっての、広大無辺、

極まることろもない肯定から生まれ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も

混沌もすべてを含んだ広大無辺の感動によって終わるものであろう。

 

小説は感動の書だと、私は信じている。小説は深い洞察によって始まり、

大いなる感動によって終わるものだと考えている。小説は一行の名描写、

一場面の優秀によって良し悪しを言うべき筋合いのものではない。同時に、

全行に優れた洞察が働いても、全体として大きな感動を持たない作品は

傑作とは言わない。

 

(中略)

元来、日本の文学ではリアリズム(realism=現実第一の態度。現実主義)

ということを、ひどく狭義に解してはいないかと私は思う。いったい

(強い疑問や、とがめる意を表す。そもそも)、空想ということを現実に

対立させて考えるのは間違いである。人間それ自(みずか)らが現実で

ある以上、現にその人間によって生み出される空想が現実でない筈

(はず)はない。空想というものは実現しないから、空想が空想として

我々愉しき(=楽しき)喜劇役者の生活では牢固(ろうこ=がっしりし

ていて崩れないさま)たる現実性を持っているではないか。」

 

以上は『ドストエフスキーとバルザック』よりの引用。

 

◇坂口安吾研究会

http://page.freett.com/angoken/

坂口安吾 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE

 

 

7.村上春樹氏の文学観。村上氏は「フランツ・カフカ賞」の受賞も

  決まり、ノーベル文学賞も最有力候補のうわさもある。

 

○作家の村上春樹氏が、ファンからの「村上さんの好きな文章は?」

 という疑問にこう答えている。

 

「僕の好きな文章は、(1)鋭利なリズムのある文章、(2)深い優しさ

のある文章、(3)ユーモアのある文章、(4)姿勢が良く、志のある

文章、です。」

 

○ファンからの「小説家として生きていく難しさとは?」には、

 村上氏はこう答えている。

 

「才能がなければもちろん小説家になれませんが、素晴らしい才能を

持ちながら、だめになった人(あるいは小説が書けなくなってしまった

人)はいっぱいいます。長い歳月にわたって小説家としてやっていく

ためには、小説家という体型に多かれ少なかれ自分を作り変えて

行かなくてはならないのです。そしてそれができる人はそんなに多くない

ということです。

 

へミングウェイとジャック・ロンドンは自殺し、フィッツジェラルドと

レイモンド・チャンドラーはアルコール中毒の中で呻吟(しんぎん=

苦しんでうめくこと)し、カポーティは実質的に自らを破壊しました。

大げさな言い方をすれば、小説を書き続けるというのは、破壊性との

間断なき闘いなのです。」

 

○「ホームページで作者と読者が出会うことは?」という疑問には。

 

「こんにちは。ぼくは最近切実に感じるのですが、人間というのは

進歩することはできるけど、どれだけがんばっても、結局のところ

自分以外のものにはなれないですよね。だから、たとえばこのホーム

ページを読んで、「ムラカミはこんなにそこの浅い人間だったのか。

がっかりしたね」と思われたとしても、それはそれでもうしょうが

ないんじゃないかと思うんです。それでもなお僕の書いてくれたもの

を読んでくれる人がいたとしたら、それがぼくとしたら何より嬉しい

です。

 

僕はそんなにたいした人間じゃないですが、小説家として一生懸命

小説を書いてるし、書くという行為の中で、なんとか自分を超(こ)

えたものになろうとしています。映画『アマデウス』の中でモーツァルト

が『僕はくだらない人間ですが、僕の音楽はそうではない』と叫んで

いますが、僕もできることなら(そうはっきりと確信できるなら、と

いうことですが)同じようなことを言いたいですね。(後略)

 

【注】村上氏のこのホームページは、現在、存在しないようです。残念。

 

○「村上作品の文庫に解説がないのはどうして?」という疑問には。

 

「こんにちは。僕は文庫本の解説というのがあまり好きではないのです。

文庫本の解説というのはエール交換みたいなもので、誰かに解説を書いて

もらうと、そのお返しに、頼まれたら書き返さなくてはなりません。

それが業界の仁義です。僕はできることなら、そういうべたべたした

人間関係に巻き込まれたくないのです。

 

だから原則として文庫本の解説を書いてくれと頼まれても断って

いますし、誰にも頼まれないようにしています。作品というのは

それ自体で自立すべきものであって、解説なんか不要だと僕は思います。

もちろん『資料』が必要な古典なんかの場合は別ですが」

 

◇村上春樹 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9

◇スポニチ・速報・文学賞「フランツ・カフカ賞」を、

日本の作家、村上春樹氏(57)に贈ることを決めた。

http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20060323014.html

 

 

8.『文学者の覚悟』を説く、大評論家、人生の達人の、小林秀雄。

 

「文学者はおのれの世界から外へは出ません。おのれと言っても、

観念の上の自我というようなものではないことはすでにお話した

とおりです。

 

こん世界は狭いものだ。この世界がどんなに狭いものかを、ぼくらが

時々反省してみるのは大変にためになることであります。

 

毎朝、新聞を広げただけで、ドイツのことからイギリスのことから

どんなに種種雑多なたくさんの知識が目から飛び込むことでしょう。

しかもその知識の1つ1つには、何の確実さもないのである。見てくれは

いかにも現実的な知識であるが、そのあいまいさその不安定には驚くべき

ものがある。その点でほとんど子どもの空想と選ぶところがない。

 

その上、たとえば太陽の周(まわ)りを地球が回っているという誰もが

知っている知識にしても、ただ本に書いてあったからそういうものかと

思っているにとどまり、自分で観察して実証したわけではさらさらない。

 

そんな知識も不確実な知識の部類に入れるならば、ぼくらの不確実な

知識の国、つまりぼくらの空想の国の広さは莫大(ばくだい)なもので

ありまして、そんなとてつもない空想を背負って暮らしているという

ことは、ぼくらが本当に憎んだり愛したり、腹から合点(がてん=納得)

したりしているぼくらの直接に経験する世界がいかに狭(せま)いかに

思い至(いた)らねば、なかなか人は合点しないものであります。

 

 この狭い世界だけを確実なものと信じ、この世界の中で自得(じとく

=自分の力で理解する)するより正しい道はないと覚悟する、それが

文学者の覚悟だと思う。

 

そういうのは個人主義思想だというかもしれないが、これが個人主義思想

などというやさしいことだと思うなら、自分で試(ため)しにやって

みるがよい。今日(こんいち)は個人主義思想はもうはやらないのだ

そうですが、はやらなくなっても、人間いかに生きるべきかは各自の

工夫を要することに変わりはあるまい。

 

何主義であれ、主義というようなものは、実をいえば思想でもなんでもない、

思想の影であります。これはぼくのかってな説ではない。二宮尊徳

(1787〜1856)の説です。大道(だいどう=人の行うべき正しい道。

根本の道徳)といっておりますが、大道はたとえば水のようなもので、

世の中を潤沢(じゅんたく=うるおす)にして、滞(とどこお)る

ことのないようなものだが、書物になってしまえば水が凍(こお)った

ようなものだ、その書物の注釈というものに至っては、氷に氷柱

(つらら)がぶら下(さ)がったようなものだ。『氷を溶(と)かす

べき温気(おんき=あたたかみ)が胸中になくして、氷のままにて

用(もち)いて、水の川をなす物と思うは愚の至りなり。』と言って

います。大切なのは、この胸中の温気なのである。

 

空想の世界の広大さに比べて、確実なおのれの生活の世界の狭さを

知れとは、この胸中の温気の熱さを知れということにほかなりません。

正義を言い、人道を言い、日本の大使命を言う、しかしそういう言葉も

氷にすぎず、氷からぶら下がった氷柱にすぎぬかもしれないではないか。

自分の胸がそういう氷を溶かすほど熱いか知るがよいのだ。そんなことは

とうに知っている、温気ぐらい誰の胸中にもあるのだ、自分はもっと先を

行く、それがもう間違いだ。間違いの一歩を踏み出すことであります。

(中略)

 

氷や氷柱は大変に多いから胸中の温気を常に温めているということは、

なかなか難儀なことである。この一片の温気が、ついに天道に達する

ものか、そんなことは知らぬ。一事に努めているものが、他(ほか)は

知らぬのは当たり前のことではないか。このほかは知らぬということ

にこそ、人間の要訣(ようけつ=物事の最も大切なところ。奥義。秘訣)

があるのだと思います。

 

ゲーテ(1749〜1832)とかトルストイ(1829〜1910)とかいうような、

偉い文学者も、各自の胸中の温気で溶(と)かすことのできた水しか

考えなかったのである。かれらは天命を待ったのであって、天命に

狙(ねら)いをつけたわけではなかったのであります。

 

 空想は、どこまでも走るが、ぼくの足はわずかな土地しか踏むことは

できぬ。永生(えいせい=永遠の命)を考えるが、僕もまもなく死なな

ければならぬ。たくさんの友だちを持つこともできなければ、たくさん

の恋人を持つこともできない。

 

腹から合点する事がらはごくわずかな量であり、心から愛したり憎ん

だりする相手も、身近にいるわずかな人間を出ることはできぬ。それが

生活の実情である。皆(みな)その通りにしているのだ。社会が始まって

以来、ぼくらはそのとおりやって来たし、これからも永遠にそのとおり

やって行くであろう。文学者がおのれの世界を離れぬということは、

こういう世界だけを合点(がてん=理解)して他は一切合点せぬという

ことなのであります。(中略)

 

自然がぼくを取り巻いているのです。また、ぼくの肉体という自然が、

水も漏らさぬようにぼくを取り巻いているのです。この堅固(けんご)な

客観の世界はぼくが望んだからあるのではないのだ。ましてぼくの望み

どおりにどうにでもなる世界ではないのである。

 

ぼくの望みどおりに1番なるように見える言葉というものさえ、もう

くどくお話したように第2の自然である。人情という言葉の美しさを

ぼくが発明したわけではなし、その美しさを醜(みにく)くする術を

ぼくが持っているわけでもない。鑿(のみ)をふるわねば、大理石の

ひとかけらも飛び散りはしないように、言葉は考えに応じてどうにでも

動く符丁(ふちょう=記号。符号。しるし)ではない。

 

これが文学者が実際に置かれている仕事場なのです。この仕事場のことを

よくお考え下されば、文学者の覚悟とは、自分を支(ささ)えている

ものは、まさに自然であり、あるいは歴史とか伝統とか呼ぶ第2の

自然であって、自然を宰領(さいりょう=監督すること。取りしきること)

すると見えるどのような観念でも思想でもないという徹底した自覚に

ほかならぬことがおわかりだろうと思う。

 

これは一方から言えば、自然や歴史を心空しく(むなしく=我欲・

先入観などを捨てる)して受容する覚悟とも言えるのである。

 

前に芸術家は、作品のうちにおのれを見つけ出すと申しましたが、

作品とは自然の模倣(もほう=まねること。似せること)を断じて

出ることはないのであって、作品とは心空しくして自然を受け入れる

その受け入れ方の極印(ごくいん=動かしがたい証拠・証明。品質保証の

ために押す印形)であると言うことができる。

 

だから、もし芸術家におのれというようなものがあるとすれば、

極印の中にしかないと申すのであります。そういう芸術を古いという人が

たくさんあることをよく承知しているが、それは自我(じが=自分)

という空想の乱用からきた芸術に対する考え方の堕落だと

僕は思っています。

 

しかし、これについて語る興味はない。歴史もまたそうであります。

歴史というものをながめて、とやかく言う自分というようなものを

考えるのは誤りである。ぼくらには歴史を模倣すること以外に

何もできるはずはない。刻々と変わる歴史の流れを、虚心に受け入れて、

その歴史の中におのれの顔を見るというのが正しいのである。

日本の歴史が今こんな形になって、皆(みな)が大変心配している。

そういうとき、はたして日本は正義の戦いをしているかというような

考えをいだく者は歴史について何も知らぬ人であります。歴史を

審判する歴史から離れた正義とは一体なんですか。空想が生んだ

鬼(おに)であります。

 

《『文学と自分』から》

 

(解説)小林氏は、観念のもてあそびということを極度にきらいます。

生活に即して、ものを考える。おそらくこういう態度や方法を、小林氏は、

ベルグソンやアラン、ウイリアム・ジェームスなどから学んだのではないか

と私は考えております。(中略)アランは、自分の知っていること以外

のことは、しゃべらないということを言っています。(佐古純一郎)

end.

 

◇【自我】=

1 自分。自己。

2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、

他者や外界から区別して意識される自分。非我。

心理学で、行動や意識の主体。自我意識。精神分析で、イド・超自我を

統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ。

 

◇はてなダイアリー - 小林秀雄とは

 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%AE%CE%D3%BD%A8%CD%BA

◇小林秀雄の著作

http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/kobayasi.html

◇二宮尊徳Q&A

http://www.toki-doki.com/tochigi/huma/sontokuq&a.htm

◇子供達に教えたい道徳

http://www.eonet.ne.jp/~daikyoren/page038.html

◇二宮尊徳

http://www.burari2161.fc2.com/ninomiyasontoku.htm

 

 

9.小説のリアリティについて、三島由紀夫氏と中村光夫氏の対談。   

 

作家、三島由紀夫氏と作家・評論家、中村光夫氏が対談をしている。

 

江戸小説の滝沢馬琴(たきざわばきん)を、「あれは、偉い」などと、

二人は、ほめている。(対談・人間と文学 講談社・文芸文庫より)

 

「この二人ほど、その文学精神において 明瞭に対立する、こんな

構図は珍しい。」と、その本解説で、秋山駿氏は言っている。

 

 三島氏の精神派と、中村氏の現実派の、対立、対決の対談だそうだ。

 

(三島)

日本の近代小説はリアリティーの要請があまりきつすぎてヒーロー

(=敬慕の的となる人物。英雄。主人公)ができない。というのは、

日本的リアリティーというものは、日本的誠実の観念と深い関係が

あって、思想に対する心的態度によって決定されるからだ。という

よりも、思想というものの取り扱い方の妙な近代的伝統と関係がある

からだ。奇跡のように顕現(けんげん)し出現するヒーローというものが

もし成功したとしても、人は成功と認めないような風土が日本にある。

そのヒーローがどんなところで飯を食うか、どんなところで生活をして

いるのかーーー

 

中村さんが書いておられるように、それは小説というものが成り立った

ときからの宿命ではあるけれども、日本ではそれ以上のものをヒーローに

求めて、それだけでは済(す)まない。どこで収入を得ているくらいでは

まだリアリティーがないという。そこになにかベタッとした誠実がなければ

ならないのだ。平野謙の批評がいちばん極端ですね。ヒーローが平野さんと

同じ生理的条件を持っていなければヒーローでない。

 

(中村)

だいたいリアリティーという言葉がおかしいんだ。小説のリアリティーと

いうものは本来錯覚なんですよ。

 

(三島)

そうですね。

 

(中村)

普通の小説読者は みな そういうことをやっているでしょ。

 

(三島)

馬琴までは それができた。

 

(中村)

読者が 実生活で 小説のまねをしようとは思わないんだ。だれも八犬士

(南総里見八犬伝)が実際にいるとは思わないけれども、読むと、

いろいろ 自分の中にある正義とか美意識とか、そういものが満足させ

られる。それでいいというふうに思っていたわけですね。だけどいわゆる

近代になってから、それがどうも分明でないというふうに思われてきた

ことが 小説に非常に 災いしているのじゃないかね。

 

(三島)

そうですね。

 

(中村)

平野謙は、自分は非常に善意で誠実だからそういうふうに考えるし、

あの人はそういう考えで一生やる気だから、それには何か動かしがたい

気があるけれども、あれではやっぱり小説を一生楽しむことはできない

のじゃないか。

 

(三島)

でしょうね。 

 

ーーー

偶然というか 2003年 8月30日の日経新聞に、『江戸小説、壮大ロマン、

今に継承。《八犬伝》にみる再評価の動き』という特集があった。

 

「近代リアリズム小説が行き詰まる中で、現代文学の活力減として『近代

以前の遺産』に目が向けられている」と。

 

 三島、中村、両氏のこの対談には、さすがの慧眼や洞察力を感じる。

 

また、ちなみに、三島氏は文学観として、下記のような話をしている。

 

(三島)

「谷崎さんの『卍』には 確かに そういう虚無へ引きずっていく力がある。

川端さんの『眠れる美女』にもあります。そういうのが僕は文学だと

思うんですね。虚無へ引きずってゆかないものは必ず贋(にせ)ものだと

思う。どこからきた確信か知れないけれども、そう思う。」

 

 この「虚無へ引きずっていく」というような三島さんの文学観が、

僕には以前から、なんとなく共感できないでいた。しかし、人生の

おそろしさを描くのも、人生のすばらしさを描くのも、ともに文学の

優れた仕事と思うようになってきた。

 

「崖(がけ)っぷちに、連れて行ってくれる文学が、人生の怖さを教えて

>

しかし、

綺麗に切ってしまうと、それ自体は綺麗だけれど、余韻が残らない。

実も蓋(ふた)もない

ということになってしまうんですが、アートの良いところは、そういう

余韻が残るところです。1枚の絵でも、

そこから いろいろなことが 引き起こされてくるでしょう」

 

 

 以上の、大変貴重な、養老さんの お話は、『千と千尋の神隠し』を

鑑賞したあとのインタビュー記事でした。

 

 多少は難解ですが、さすが東京大学の名誉教授、日本の最高峰の知性の

お話で、理路整然として

僕には、芸術(アート)のリアリティとは何か、その価値とは何か、そんな

難問に、1つの説得力のある答えを 提示してくれている気がします。

 

もっとも、信頼している科学でさえ「暫定的な答えであり、未来にはその

変更もありえる」といわれていますから、絶対的な

真理などは、人間には なかなか、わからないのかもしれません。

 

 養老氏が説く『唯脳論』について、氏が語る若干の文章をご紹介します。

 

「人間は生まれてから死ぬまで、常に変わっていく。『変わらない私』を

前提とした

西欧近代自我は、脳=意識が生み出したフィクション(つくりごと)に

過ぎない。

わたしが書こうとした そのことは、『諸行無常』という短い言葉の中に

すでに 言い尽くされています。

 

あるいは無我というのも同じ意味でしょう。私が書いたものが、お経に、

近づいていったのは、

日本語を使って書いたからでしょう。日本語の抽象的な語彙の多くは、

もともと

経典から出ています。『意識』『心』『愛』『自由』『時間』といった

言葉は すべて、梵(ぼん)語を

訳したものです。みなさん、あまりご存知ありませんが、仏教は相当

高度な抽象思考を持っているんですよ。」

 

【資料】

キネ旬ムック『千と千尋の神隠し』を読む40の目 キネマ旬報社 

仏教入門特集 文芸春秋 2004年 4月号

 

 

 

11.夏目漱石が探求した『普遍性』つまり『リアリティ』について

   吉本隆明氏が語る。夏目漱石の志を書簡に読む。

 

 

吉本氏は、夏目漱石の全集を5,6回は読み返したという。

氏の下記のお話を聴くと、私(Z)も

漱石も、真のリアリティを求めて、格闘していた 巨匠だったと思う。

 

「ぼくの知り合いで、欧米白人と結婚した女性がいます。話の折に、

『むこうの男は そんなに いいかね』

なんて無遠慮に訊(き)くと、こんな答えが返ってきた。

『むこうの男が、

日本の男と比べて、とくに素敵とは思わない。でも、1つだけ、

逆立ちしても

かなわないなと思うことがある。それは普遍性というものへの確信よ』

 

 普遍性への確信というのは、文化の違い、人種の違いを超えて、

人間のあり方としての

共通性を信じるということです。そういう信仰にもとづいて、

くれる文学が、良い文学だ」とも、何かの著作で三島氏はいっていた。

 

私個人としては、人生の、不条理、奇怪さ、怖さ、など、毎日のニュース

でも見てれば、痛いほどよくわかるわけで、文学や芸術に求めるものは、

どちらかといえば、陽気でユーモアのある、楽しく元気の出るものなので

ある。読んだことはないけど『八犬伝』の おもしろさ 良さにはきっと

共感できると思う。   

 

◆南総里見八犬伝は、楽しい名作だそうだ。岩波文庫や新潮社にある。

 

 

10.アートとリアリティについて明確な定義をする、養老孟司氏。    

      

 リアリティについての明確な定義した養老氏のこの発言以上の、

優れたリアリティの定義を私(Z)はほかに知りません。

 

 2003年の流行語大賞の『バカの壁』の著者 養老孟司(ようろう

たけし)氏の、宮崎アニメについてのお話が、アート(芸術)論と

しても、芸術文化の活性化の方向を決定し予見させるほどに優れている

と、私には思える。

 

(聞き手)

「私たちは 夢の中で現実では想像つかないようなスケール感やスピード

感を体験する

ことがありますが、まさに宮崎さんの世界には 自分がそうやって現実

から解き放たれた

ときの感覚を思い出させてくれるような ところがあるように思います」

 

と、こんな聞き手に対して、養老さんは語る。

 

(養老氏)

「そうですね。しかも まったく無理がない。作り物という感じが 全く

しないんです。

でも僕はそれが当たり前だと思います。宮崎さん流にいえば『あって

いいんじゃないかよ』

って。本来それをリアリティというんです。だから当たり前でないと思う

ならば、それはアートが外(はず)れすぎたんですね。

 

 リアリティについて 古い言葉でいえば、真善美なんです。より本当で

より正しくてより美しい。

それがリアリティの意味です。第1、リアル(real)は 現実という意味

ですから、その現実(real)を

抽象名詞にした リアリティ(reality)って どういう意味なの?って、

僕は 学生に よく聞くんですよ。

現実という言葉の 抽象名詞の リアリティって、一体なんでしょうって

(笑)そんなのは

おかしな名詞であって、実は リアリティを 現実性とか そういうふうに

訳したから おかしくなってしまうわけです。

具体的に訳すなら、

真善美と訳したほうがいい。人は本当のもの、正しいもの、美しいものに

惹(ひ)きつけられる。

それをリアリティというんです。だから 現実(=リアル=real)に 対照

する英語は

アクチュアリティ(actually)、日本語では 日常性ということになるん

ですが、

そこのところをなかなか 気づかないで混同しています。

 

 そうなってしまうのは 現代が 素朴実在論( 外界が 意識から独立に

存在している

と見る 日常実践の立場 )が 非常に強い世界だからなんですが、どういう

意味かというと、

物体は 確実に 存在しているが、後(あと)は 抽象だと思っている。特に

科学をやっている人たちは

そう思っています。けれども、よく考えてみると 現実なんてありはしない。

なぜかというと

すべては 脳が 把握していることであるから。だから 僕は 唯脳論を

唱(とな)えています。

要するに 脳に映ってこなければ 何もないことになる。しかも、もっと

極端に、脳は

何があるもので 何がないものかということを勝手に決めているのです。

それを現実感と僕は呼んでいます。

つまり誰だって 物体の存在は 否定しませんが、それはどうしてかという

と、脳は 絶えず

自分の中を 動いているものに対して 現実感を与えるという癖(くせ)が

あるからなんです。

だから物体とは何か ということを 脳から定義すると 非常に簡単で、

人間の感覚は

五感しかありませんから、ある対象が 五感のすべてに 訴えかけるときに

それを物体というわけです。

つまり、目で見て、音でとらえて、感触、嗅覚、味覚でとらえる。

そういうものが物体ということになる。

 

<中略>

 

 僕は、英語を持ち込んで、五感から入る物体的なものを、アクチュア

リティ(actually=日常性)と呼んで、

それ以外のものをリアリティと呼んだほうがいいと思います。

 

 ですから想像的な世界も リアリティであり、宮崎アニメは 典型的な

リアリティなのです。

それぞれの脳が、実は『情報』に対する 重み付けなんです。現実という

ことは、重みをつけている

ということなんです。・・・それを具体的に判断できるか、その人が何を

現実と思っているかは、

その人の行動が、それによって影響を受けるものは すべて その人に

とって 現実ということなんです。

だから、僕は、人の数だけ、現実はある と考えます。アニメだから、

御伽噺(おとぎばなし)だから、

それは 作り物でしょうというのは、多分違うんです。それをいうなら、

世界そのものが作り物ということになりますからね」

 

(聞き手)

「それにしても、この映画は観(み)終わった後、親しい人に『あなた

は観てどうだった』と

語り合いたくなるような映画だと感じました」

 

(養老氏)

「感性の世界は、そういう面を持っているんです。つまり余韻が残るん

です。

僕らは理屈の商売だから、物事を綺麗に切っていかなければならない。

文化も創造するし、恋愛もする。

それは日本の現実とは ほど遠いものだというのです。

 

 普遍性への信仰は、裏腹に、特殊性への蔑(さげす)みをともないま

す。西欧のインテリと話をしていると、

なんだ、こいつ、ものわかりのいい顔したって、一皮むけば、日本人を

野蛮な者としか見ていないじゃないか。

そう感じさせられて鼻白むことが、しばしばあります。

 

 漱石が英国で直面したのは、そういう世界でした。

 

漱石はロンドンで、『普遍性』という相手の土俵に立ち、自分を相対化し

、返す刀で 相手をも相対化するような、

熾烈な本質追求を試みたのです。これは大変な作業です。独(ひと)りで

背負うには、荷が重過ぎる。

だから、いっぱい背負って、いっぱいわからなくなった。いっぱい

わからなくなっても

なりふりかまわず、進んでいったのです。その姿は、傍(はた)からは、

発狂した、と見えた。

その七転八倒の軌跡が、『文学論』です。」

 

 

○書簡から

 

明治39年10月26日付、生徒の鈴木三重吉(みえきち)への書簡から

 

「僕は一面に於(お)いて、俳諧(はいかい)的文学に出入りすると

同時に、一面に於(お)いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な

維新の志士の如(ごと)き精神で文学をやりたい。

 

それでないと、なんだか難(なん)を捨(す)てて、易(い)につき

劇(げき)を厭(いと)ふて、閑(かん=暇ひま、無事)に走る

所謂(いわゆる)腰抜け文学者の様な気がしてならん」

 

 

明治39年11月16日付、編集者の滝田樗陰(ちょいん)への書簡から。

 

「後世(こうせい)に残る残らんは、当人たる僕の力で左右する

訳(わけ)には行(い)かぬ。しかし、いやしくも文筆を持って

世に立つ以上は其(その)覚悟である。」

 

 

【資料】文芸春秋 平成16年12月 臨時増刊号

 

 

 

12.直木賞作家の江國 香織さんが リアリティについて語る。

 

 『東京タワー』など、たくさんの恋愛小説の書き手、2004年の直木賞

受賞の 江國 香織さんは、エッセイ集の『泣かない子供』で、

『 なぜ書くか 』の中で、リアリティについて語っている。

 

「 人が どう見ているかは ともかくとして、私は いつも リアルなもの

を書いていたいのだ。

リアルじゃないと 小説は つまらないと思う。私に とってあらゆる 小説

はファンタジーなのだ。

ファンタジーというのは 河合隼雄さんの 言うところの『 たましいの

現実 』であり、

それが私にとっての リアリティーだと思っている。したがって、それは

『 ありそうなこと 』か どうか、

あるいは『 たくさんの人が さもありなんと うなずくこと 』かどうか、

と なんの関係もない。

そういうのは 錯覚( しかも みんなが 一っぺんにする錯覚 )

だと思う。

リアリティー というのは もっと個人的なものなのだ。そういう 個人的

な真実を信じられなく

なったら おしまいだ。他に 信じられるものなんて 何もない。と

少なくとも 私は 信じている 」

 

 このくらいの 確信というか思い入れがないと、江國さんの ような

優れた作品は書けないとも思う。

(といっても、まだ、あまり作品を拝読していませんが)

虚構を《 虚構としての 現実》として楽しむことが、人生や心を豊かに

するのだと、私(Z)も強く同感します。

 

 

 

13.スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫(としお)氏の言葉。

 

「宮崎アニメのヒットの秘密は、プロデューサーの鈴木敏夫の人材活用術」

というNHKの『プロフェッショナル』の放送がおもしろかった。

 

宮崎アニメが、どれだけ人気があるかというのが、数字で見ればわかる。

日本の映画の歴代興行収入では、『千と千尋の神隠し』が、興行収入

304億円、観客動員2300万人でトップ(1位)という金字塔を打ち

立てている。2位が『タイタニック』で260億円、3位が『ハリー・

ポッターと賢者の石』で203億円、4位が『ハウルの城』で196億円、

5位が『もののけ姫』で193億円で、なんとベスト5に、宮崎アニメが

3つも入っているのです。(^^;)

 

そのすべてに、鈴木氏はプロデューサー(producer=制作責任者)と

して深く関わっている。

 

その仕事は、映画の企画から、予算調達、人集め、スケジュール管理、

宣伝・戦略まで、いわば映画の始まりから終りまで、すべての責任を

負(お)う、その責任者です。

 

『千と千尋の神隠し』で、「少女が、生きる力に目覚めていく物語に

しよう」と提案したのもスタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫

(としお)氏(57)だった。

 

鈴木氏のもとでは約千人の人たちが動くのだそうだ。それぞれの人を

『やる気』にし、その力を最大限に引き出すそうで、鈴木マジックと

呼ばれているそうだ。

 

「(作品は)やっぱり楽しいものにしなければいけないんだよ。

そのためにはまず第一に自分が楽しまければいけないわけよ」

 

鈴木氏には、大切にしている流儀があるそうだ。「仕事を仕事じゃなく

するのが得意なんですよ、おれ。仕事だと思っていると、やってられ

ないもん。ばかばかしくて。でしょう」と語る鈴木氏。仕事を、みんなで

楽しむ『祭り』変えるのだそうだ。

 

鈴木氏が手がける映画の予算は数十億円。ひとつ判断を誤(あやま)れば、

巨額の損失を生む。その仕事には、猛烈な重圧は鈴木にのしかかる。

 

そんな鈴木氏が心に決めていることがある。それは「自分は信じない。

人を信じる」ということ。「自分を信用してない。自分を信用しては

いけないと思っている。1人の人間が考えることっていうのは、たか

だか知れているという考えなんですよ。これ、誰であっても」と

真剣な眼差しで語った。

 

目を輝かせる子どものように、すてきな笑顔の鈴木氏だった。

 

以上、NHKの『プロフェッショナル』(2006年4月6日放送)より

 

 

 

14.米国の作家のレイモンド・カーヴァーの『書くことについて』

 

 

作家の村上春樹がほとんどレイモンド・カーヴァーの翻訳や紹介をして

いる。そのカーヴァーが『書くことについて(オン・ライティング)』

という本(残念ながら絶版です)を書いているそうだ。

 

その本を中条省平氏が『小説の解剖学』という本で紹介しているのだが、

その内容は、作家に限らず、創作を目指す人には、勇気のわくような

言葉だと思った。以下は『小説の解剖学』から。

 

「作家は命がけの商売で、常に自分は明日から書けなくなるんじゃないか

という強迫観念と闘いながら生きている存在です。レイモンド・カーヴァー

の書くことについて(オン・ライティング)』には、そういう作家たちが

どんなふうに危機を乗り越えるかという具体的なケースが書いてあって、

とても面白(おもしろ)い。

 

カーヴァー自身が例を挙げているんですが、『アイザック・ディーネセン

はこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます。

と』。これは三島由紀夫タイプですね。エクササイズ(=練習、運動)

として毎日ちょっとずつ書くことが必要です。(中略)

 

基本的に一字一句きっちりと書くことからしか小説は生まれません。

 

そして、希望もなく絶望もなく、というのは、作家がものを見つめるため

には、ものすごく高揚していても見きれないし、まったく落ち込んでいても

見きれないということです。

 

『いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の壁の横に貼っておこう

と思う。壁にはいま何枚かのカードが貼ってある。《基本的な正確さを

持って記述すること。それこそが文章を書くことにおける唯一のモラリティー

[morality=道徳性、倫理性、教訓など] である》』。

 

この言葉はエズラ・パウンドのものですが、非常に重要なことです。それだけ

が唯一のモラルです。」

 

 

 

 

【資料】(敬称略)

 

『作家養成講座』   若桜木 虔(わかさきけん) KKベストセラーズ

『芥川龍之介の復活』      関口安義・著  洋々社

『芥川龍之介・その生涯と文学』 山梨日日新聞(1991年9月25日版)

『文豪ナビ・芥川龍之介』        新潮文庫 

『芥川龍之介』     関口安義・著  岩波新書

『小説の自由』     保坂和志・著  新潮社

『書きあぐねている人のための小説入門』 保坂和志・著  草思社

『坂口安吾全集・14』         ちくま文庫

『そうだ、村上さんに聞いてみよう』 村上春樹・著  朝日新聞社

『人生読本・第6巻・小林秀雄』   佐古純一郎・編  角川書店

『日本論』            坂口安吾     河出文庫

『小説の解剖学』        中条省平     ちくま文庫

『作家の値うち』      福田和也     飛鳥新社

『サライ・夏目漱石』    2005年6月2日号

『対談集・作家はなぜ書くか』  安岡章太郎

『文学とは何か』       加藤周一  角川新書 角川書店

 

 

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