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世界的な指揮者・小澤征爾(おざわせいじ・1935年9月1日、昭和10年生まれ)

さんは、ピアニストを目指していた。

 

しかし、成城学園中学校に在学中、ラグビーに熱中して、指を骨折し、

ピアニストを断念することになった。それからは、指揮者になることを目標にした。

 

「ラグビーのポジションが3番から8番になったときに、マークされて、指を骨折した」

と小澤さんは語った。母親のさくらさんには泣かれたそうだ。そんな豪快な青春を

過ごした小澤さんの感動的で含蓄(がんちく=深い意味・内容)のあるお話。

 

小澤さんは、中国で生まれた。現在73歳と何ヶ月で、遊びは、スキーだそうですから、

その若さもすごいものです。癖(くせ)はわからない、嫌(きら)いな食べ物は、なし。

 

「好きな女の子は?」という質問には「女のひと、みんな好き!」とわらって答えた。

 

小澤征爾さんは、1972年の日中国交正常化以来、何度も北京(ぺきん)でコンサートを

おこなってきた。

 

その度(たび)に必ず尋(たず)ねる場所がある。子ども時代を過ごした家だ。それは、

店先でバナナとかも売っている、伝統的な家屋が立ち並ぶ北京の細い路地

(新開路という地名)にあった。

 

「ここから通(かよ)った日曜学校っていうのが、西洋音楽の…、賛美歌ですからね、

それを子どもたちが歌ったのを、おれたちも、一緒になって歌ったのが、初めだった

ような気がするけど。で、おふくろが帰ってきて、家(うち)で賛美歌を教えてくれた

んですよね。それで、みんなも歌うようになって。

 

おふくろがキリスト教だったから。プロテスタントの。で、おやじが、仏教で。

で、おやじがよく、キリストと仏(ほとけ)さまは、こう、上へ行くと、おなじ人間だった

んじゃないかと。むこうへ行ったのが、キリストで、こっちがわに伝わってきたのが

仏だと。仏教のね。」と小澤さん。

 

…家族で賛美歌を歌うときには、征爾さんがアコーデオンを弾いたそうだ。

小澤征爾さんのおふくろさんが亡(なく)なったときには、近所の人たちが、

桜の木を植えてくれて、それが現在でも、小ぶりのその桜の木は、ボタンのような

ピンクの花を咲かせている。

 

「たくさん花が咲いたの、今回まで見たことがなかったの。こんなにちっちゃかったの、

すごいよね…。だから、6年が経(た)ったんだよね。灰を入れたんだよね。こんなかにね、

そおっとね…。ポン(弟・幹雄さんの愛称)と一緒に。

 

分骨(ぶんこつ)みたいに、お墓(はか)みたいに、ここに入れたの…」と、小澤さんは、

植木鉢に囲まれた、桜の木の根元を指さした。

2002年9月に、母・さくらさんはなくなった(94歳)。

 

1940年、さくらさんは、日本で子どもたちを育てたいと考え、父で歯科医師の

開作(かいさく)さんより、一足先に、引き上げた。2年後に帰国した開作さんは、

資産をすべて中国人に譲(ゆず)ってきたため、一家は貧(まず)しい生活を余儀

(よぎ=他にとるべき方法)なくされた。

 

1945年、東京の立川に移り住んでからも、家族で賛美歌を歌った。「なぜ、ラグビーが

そんなに好きだったんですか?」という質問に、

 

「僕、フォワードの3番だったんだけど、長いあいだ。後(うし)ろのロックのヤツも、

となりのヤツも、もう、肌(はだ)で、わかるっていう、そういう仲間意識があって、

それがまあ、フォワードの連中は、それで押(お)していくっていう、たえられない、

おもしろさがあって。本当に、おもしろい、それは。

 

あの頃は、バカみたいに、お昼休みも毎日、飯(めし)を食(く)ったらすぐ、もう、

グランドの脇の草むらで、ラグビーをやってたくらいだから。

毎日やってましたね、ラグビーを…」と小澤さん。

 

「ラグビーとバッハには共通点はありますか?」という質問に、小澤さんは、

 

「あのね、変な話なんですけどね、僕、ラグビーやっていなかったら、肉体的にはね、

音楽家になれなかったと思う。特に指揮者に離れなかったと思う。

 

で、最後のエネルギーというのはね、何やるにしても、バッハだけじゃなくても、

音楽とかラグビーのそのエネルギー、人間の力をふりしぼる最後のところ、

エネルギーを出す、技術というか、精神力というのは、共通していると思う…。

 

実は、ここの…、一昨日(いっさくじつ)か、北京の中央音楽院で、オーディション

(=歌手・俳優などを起用する際に行う審査)があって、そんなかで、

5人の指揮者を、僕、オーディションしたのね、男の子、5人。

 

みんな、19から20、21、22くらいの大学生ですね、あれ。そのね、中国人の指揮者は

みんな、まだそんなに、わかってない人もいっぱいいたけど。だけども、エネルギー

がね、あるんですよ。

 

中国人は、特に指揮者に限り、いま。…それはね、僕思ったけど、すごい、

いい勉強になったんだけど。…僕らが音楽やるときに、あるいは、ラグビー

やるときに、まあ、乱暴な話ですけど、人間のエネルギーっていうのはね、

エネルギーをね、出してみないと、わからないものだと思う。

 

とことんまで、やるときに、人間のその熱意というか、やるんだという、

やる気というのは、あのう…バッハの、あるいはヴェートーベンの精神力とか、

そういうものにも関係あるかもしれない。

 

で、それがなくなると、どんなに技術があっても、どんなに頭がよくても、

どんなに環境がよくても、どんなに経済的に豊(ゆた)かでいろんなものが

あっても、人間の本当の幸福というのは、得(え)られないかもしれない。

 

あるいは、本当に、人間の大事なことには触(さ)われないで、その人は、

終(お)わるかもしれない。というふうに、このごろ、ちょっと、昨日(きのう)、

一昨日(おととい)か、(笑)オーディションで思ってんですけどね。

 

で、僕にとっては、ちょっと驚いたのは、最近、見ないんですよ、若い人の

そのエネルギーを。やみくものエネルギー…。

 

あのう…中国の若い人の、音楽をやる年代の中には、まだそれがあるのかも

しれない。…おそらくね、まだ、得(え)られないからだと思う。

 

音楽の…音楽をやるチャンスにも恵(めぐ)まれてないし、どうやって

いいかわかんないから、なにしろ自分ができることだけやろうという。そうそう、

流行(はやり)の言葉ですよね、ハングリー(=空腹なこと。飢えているさま。

精神的な場合についてもいう)になっているんでしょう、むこうは。

 

だけど、僕たちみたいな年代は、本当にハングリーっていえば、

冗談(じょうだん)になるくらい、ハングリーだったから、それは、その中で

生き延(の)びてきたということは、尊(とうと)いことだと思うし、

 

それは、次の世代のやつらに伝えて行かなければいけない。僕がやっている

音楽塾(小澤征爾音楽塾=若手音楽家を育成するための音楽塾)なんかでも、

僕が指揮している部門では、それをなんとかして、みんなにわかってもらおうと、

 

『おれは孤高(ここう=俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること。

また、そのさま)なんだよ』ということをわかってもらおうと、

思ってやっているんですけどね。」と、熱く語った。

 

【資料】「指揮者・小澤征爾・わたしが子どもだったころ・スペシャル」

        NHK BS 2009年6月3日(水)放送

 

プロフィール : Dear小澤征爾〜マエストロ小澤征爾の世界〜

http://www.dearseiji.com/post.html

小澤征爾 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE

小澤征爾 アーティストページ Seiji Ozawa Top Page

http://www.universal-music.co.jp/classics/artist/ozawa/ozawa.html

成城学園公式サイト

日本ラグビーフットボール協会ホームページ

http://www.rugby-japan.jp/

NHK わたしが子どもだったころ

http://www.nhk.or.jp/kodomodattakoro/