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≪余談≫加藤さんのこの特集番組には「憲法九条」の話とかも出てきますが、

ちなみに、

文芸評論家の吉本隆明(よしもとたかあき)さんなども、「どの国と比べても、

日本の憲法は、圧倒的にいい」と、糸井重里さんとの対談でいっている。

【資料】悪人正機(あくにんしょうき)・新潮文庫

 

あくにんしょうき‐せつ【悪人正機説】 ヤフー辞書

阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願は悪人を救うためのものであり、悪人こそが、

救済の対象だとみる考え方。親鸞(しんらん)の念仏思想の神髄とされる。

 

吉本隆明 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

☆☆ 評論家・加藤周一さんの思想≪前編≫

    (NHK教育の『アーカイブス』から)

 

【資料】 NHK教育の『アーカイブス』

東京渋谷区の日仏会館での、桜井洋子さんの司会による番組

(3月31日(火)午前5:40〜5:50)

http://www.nhk.or.jp/archives/

 

先月(2月21日)、東京都千代田区で、『知の巨人』ともいわれた、日本を代表する

評論家の加藤周一さん(享年89)の『お別れの会』が開かれました。

文化、芸術の第一線で活躍する人たち、一般の人まで、およそ1000人の人が

集まりました。会場の外まで、別れを惜しむ人で溢(あふ)れました。

 

その『お別れの会』で、作家の大江健三郎さんは「『相手を完全に理解せよ。

同時に自分の弱点を見抜け』…これよりも良い、これよりも優れた、そして、

本当に加藤さんらしい、わたくしたちへの助言はないだろうと、わたくしは

受けとめております。どうもありがとうございました」と述べた。

 

戦中、戦後の激動を生き抜いた加藤さん。その発言は、文化、芸術にとどまらず、

政治、戦争にまで及(およ)びました。

加藤さんは、フランス留学やドイツで教鞭(きょうべん)をとるなど、長い海外生活を

送りながら、日本の在(あ)りようを問い続けました。

著作は多くの国で翻訳され、日本を知る手がかりとして、大きな信頼を集めています。

 

※ 以下、 ◇ のある「」 内は、加藤さんが語った言葉です。

 

◇「日本にはね。少数意見の尊重という考え方が薄いんですよ。…少数派が、

なければ一番いい。日本人が集まって、みんなで何かについて意見をいうときに、

全会一致が一番のぞましい光景なんですよ。そこで、ひとりとか、ふたりだけ、

反対意見の人があると、不幸なアクシデント、事故なんだよね」

 

加藤さんは、亡(な)くなる直前まで、わたしたちに、メッセージを送り続けました。

そこにはどんな思いが込(こ)められているのでしょうか?

 

◇「だんだんに、その…、システム、組織の力が強くなって、だんだんに、その…、

個人の影響力が後退する。専門部分に関する細かい話になって(専門分化が進んで)、

それで、全体として、人間的に、大きな方針、行き先を、指示できるような人がいない、

ということですね。…なんとか、その影響を…、人間らしさを、人間がつくったものを、

世界の中に、再生させる、というためには、そのね、…そのことを意識しなければ、

だめなんですよね。」

 

去年の12月、89歳でなくなった、評論家の加藤周一さんが、よくこちら(日仏会館)を

訪れたということです。きょうはここ日仏会館で、加藤さんが残した言葉から、

いまわたしたちは何を受け取ればいいのか?考えてゆきたいと思います。

ゲストには、おふたかたに、お越しいただいております。ノンフィクション作家の

澤地久枝さん。そして、政治学者(東京大学教授)の姜尚中(カン サンジュン)さん。

よろしくお願いいたします。

 

≪中略≫

姜尚中(カン サンジュン)さんは、加藤さんの印象について、このように語っていた。

 

「ジャーナリストのいろいろな勉強会があったんですよ。そこにも何回か、足を

運んだことがあって。僕にとっては、こわい、巨人のように、高みにある人では

なくて、非常に、茶目っ気(ちゃめっけ)のある、それで、睨(にら)まれると、足が

すくむんですよ。その時、今度は、にこりと笑われると、非常に一瞬、何かこう、

ぱっと舞台転換するような、存在自体が、演劇的な効果を持つ人でしたね。

チャーミングな方でしたね。」

 

この姜(かん)さんの言葉のあとに、澤地久枝さんは、加藤さんについて、このように

語っている。

 

「わたしはね、たくさんのご縁に恵まれていたと思いますけど。1番最初はね、

加藤さんの最初の小説『ある晴れた日に』っていうの。これね、あのう、昭和25年の

1950年に出ているんです。1950年は、学園紛争の非常にたかまった年で、

いま自分は、何をするか?という答えを求めて、読んだんですね。だから、これを

読んだときに、あまり、役に立たないと思ったの。当時は。その時はね。(笑)

 

…わたしは、直接には…、編集者になりましたから、お目にかかる機会は、たくさん

あったけど、あの人(加藤さん)は、知の巨人だと思って、大変な教養人で、

おっかないから、逃げようってんで、わたしは一目散に逃げていて。(笑)

 

会ったこともないけれど、そういう人は『水』が違うと思っていたんですよ。

もっと前から、そばへ行けばよかったなと、思うようになったのは、 『九条の会』が

発足(ほっそく)して、たまたま呼びかけ人にならないか?と誘(さそ)われて、

入って、度々(たびたび)、本当に親しくお目にかかれるようになってからのことで、

お作を読み返して、本当に申し訳ないと思っています。

 

そして、なんて惜(お)しいチャンスをね、みすみす逃(のが)したんだろうって。

こんなすばらしい、同時代のすぐそばにいながらよ…、あの…、

最初に逃げたあれが、ずっと後(あと)を引いていたのね。だから、本当に、

ごめんなさいって感じで、きょう来ました。

 

≪中略≫…ジャンルも広くて、深い人ね。どんなことでも、これは、

わからないって、中途半端にしないで、きちんと調べて、勉強なさって。

だから、加藤さんっていうのは、言葉が曖昧(あいまい)でなくて、

明晰(めいせき)な人だったと思う。

日本のインテリさんというのは、何とかのような、というような語尾が、

グジュグジュとなって、はっきり、ものを言わないほうが高級だと思っているのよね。

でも、言葉は、はっきりしているほうが、わたしはいいと思います。

でも、加藤さんは、実に、

明確に言葉を選んで話をなすった、めずらしい知識人だと思う。」

 

澤地さんのこの言葉のあと、姜尚中(カン サンジュン)さんは、こう語った。

 

「常識でわからないことは、曖昧(あいまい)にしない。何かに、譬(たと)える

ときも、はっきりと、どんな人にもわかる。これは、明晰性っていうのは、やっぱり、

加藤さんのなかに、一貫してあるし。この人は、アジアの歴史というか、

日本の歴史の中でも、めずらしいと思いますね。」

 

〈解説〉「九条の会」とは、「平和を求める世界の市民と手をつなぐために、

憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。」という趣旨の会だそうです。

九条の会・オフィシャルサイト

http://www.9-jo.jp/kaikenvideo.html

 

 

加藤周一さんの、思想、考え方は、どのようなものなのでしょうか?きょうは、

2000年と2008年に、放送された、番組を、ご覧(らん)いただきながら、

考えていきたいと思います。

 

評論家、加藤周一さんは、1919年生まれ。1931年、満州事変の年、中学に入学。

36年、226事件の年、中学を卒業。文学から政治まで、常に、現代と向き合って、

発言してきました。

 

加藤さんの『日本文学史序説』は、7つの言語に、翻訳されています。英語、

フランス語、中国語、イタリア語、ルーマニア語、ドイツ語、そして韓国、朝鮮語。

加藤さんは、日本文学の歴史を、翻訳可能な文章で書き、外国の文化の中に

置(お)くことによって、それが、どこまで普遍性を持つかを、明らかにしたのです。

 

◇「…日本文学史序説をね、書こうと思い立った、まず、動機みたいなものはね。

あの…、まあ、わたしは、その時、ちょうど、大学を出たばかりで、まあ、何年も

たってなかったんですが、その…、第二次大戦が…、太平洋戦争が終わって

ですね、敗戦…、日本の降伏ということになって、1945年8月ですね。

 

…で、…その前には、あの…、とにかく…、日本国中で、鬼畜米英っていってた

わけですよ。ところが、その…、それが、敗戦ということになって、今度は、

まあ…拝米(はいべい)でもないけれど、アメリカ一辺倒になって、国中が、

がらっと、変ったわけですよ。それから、その…、戦前の日本の中心だという

ことで、全体が、そういうふうになっていた…、このピラミッド型につくられて

いて、そしてその頂点に、天皇陛下でしょう。そして、天皇陛下は神様だった

わけですね。

 

で、ところが、その…、人間宣言っていうのがあって、天皇は、あの…、象徴で

あって、人間だということに変ったわけでしょう。大きな変化ですよね。まあ、

その2つだけとっても。で、それが、大変ね、たいした摩擦とか、たいした抵抗が

なくて、わりに、すらすら変ったんですよね…。で、どうして、そんなに、

一晩でもって、そんなことが、すらっと…、変るのかね。日本人の心っていうのが、

まあ、どういう仕掛(しか)けになっているのかという疑問があったわけですから。

それをはっきりさせる必要があると考えたわけなんでね。」

 

その後、加藤さんが、日本の文学のみならず、日本の絵画、造形美術、建築など、

世界の文化と、比較検討することによって、形あるものの中から、それを

生み出した、日本人の心を、客観的に取り出す仕事を続けました。加藤さんは、

日本文化の雑種性に着目しました。

 

◇「日本の文化は、もともと、仏教、儒教と、外来のものを、深く吸収して、

 成り立ってきた。」

 

◇「その、雑種文化についての議論を、わたしが、日本に帰ってから書き出した

んですが、その…、帰るまでは、だから、直前までは外にいたでしょう。で、外に

暮らしていると、長期的にものを見る傾向が出てくるわけですよね。

 

だから、この5年間の動きとか、この10年間の動きとか、じゃなくて、もっと、長い、

その日本の歴史っていうものが、あの…、ヨーロッパの歴史とは違うから、

それを対比したときに、どういう意味があるかということで、普通、雑種文化

というと、悪いイメージがあるけれど、それを、いいものに、転化しようと、

それが仕事じゃないかと、いうことですね。

 

雑種を純化するっていうのは、そこで批判して…、わたしが批判したように、

あの、第一にできない、無理にしようとすると、ただ損害がおこるだけだ。

で、あの…、純化するのには、2つのやり方があって、日本式にして、

なるべく西洋的な要素を、西洋から来た要素を追い出すと。

 

近代の話ですからね。だけど、それは無理なんで、西洋から来た要素を

追い出せないですよ。ね、それは悲況に偏狭な、狂信的なナショナリズムに

なるだけで、現実にぜんぜん合(あ)わない。それから、西欧崇拝者は、

今度は、日本の伝統的な要素を捨てて、みんな西洋化しようという。

 

どっちも、第一に非現実的、第二に、思想的に幼稚かつ有害だ。狭い

ナショナリズムか、外国崇拝だから。…だから、唯一の解決法は、

第一のステップ、第一歩は、雑種文化を認めること。で、純粋化しようとする

意図を捨てることですね。で、完全に、熱狂的な、狂信的なナショナリズムを

捨てて、それから、西洋崇拝をやめて、で、日本人は、日本なりに、で、自分で、

雑種文化を、いいものにするしか、手がないと。

 

もし、何か、日本が、将来に向かって、明るい展望を持つとすれば、それは、

雑種文化を、積極的なものに、転化することだと、言っているわけです。

だけど、必ず、そうなるとは言っていないからね。それは、できないかもしれない。

できなければ、要するに、だから、日本の将来は、あまり明るくないということです。」

 

加藤さんはあらゆる角度から、日本のあり方を問い続けた。

  1991年1月〜2月 湾岸戦争

 

◇「これほど、みごとに、徹底した自己中心主義と、お任(まか)せ主義の、

組み合わせは、世界の大国の中でもめずらしい。

日本語で、国際的というときには、しばしば、対米関係を意味する。その用法に

従(したが)えば、国際的責任を果たすというのは、実は、米国の要求に応じると

いうことであり、国際的孤立を避(さ)けるとは、日米関係の摩擦を避(さ)けると

いうことになろう。

日本政府にとっての湾岸危機とは、対米問題にすぎないのかもしれない。」

【資料】夕陽妄語『湾岸危機と日本の対応』1990年10月

 

◇「まあ、簡単にいえば、要するに、その国際的な体制、多数意見に従うという

態度をとったところですよ。で、そのうえで、いま、なにができるか?というふうに

考えたわけですね。

だから、その、体制順応という習慣っていうかな、強いと、現在のことに関心が

強くて、その過去や未来との関係において、現在の行動を定義するということが、

少ないということでしょう。だから、過去の事実、ことに、不快な事実を正面から見る

習慣がないわけですよね。で、それが、一番、基本的な問題だと思う。」

 

◇「…文学はですね、あの、人生または、その…、社会のね、目的を…

定義するために、必要なんですね。

文学は、目的を決めるのに、役立つっていうのは…、文学によって

決めるんですよね、…目的を。

そして、目的を達成するための手段は、技術が提供する。だから…、簡単にいえば、

そういうことだと思いますね。

ですから、その…、科学技術の時代ですよね、いまは、もちろん。だけども、

その…、手段と目的を混同しないほうがいいんで、科学技術がいくら発達しても、

その目的は、決まってこないと思うんですよ、社会にとっても、個人にとってもね。」

 

上記の2000年の加藤さんの話について、澤地さんはこう語った。

 

「1945年に、戦争が終わった、8月15日を境(さかい)にしてね、鬼畜米英と、

いい大人をふくめて、みんなが言っていたのに、負けたとわかって、

一夜明けたらね、あの…、民主主義の占領軍、バンザイになって、

っていうふうに、みごとに、すりかわってしまうっていう、その…、

日本人の特性というのか、それは何かというのを、1つは言って

らっしゃると思うのね。

昨日(きのう)まで、鬼畜米英だとしたら、何かが変っても、鬼畜米英でなければ

ならないわけですよ。それが、当(あ)たっているかどうかは、別にしてね。

で、自分の価値観ってものが、ひっくり返って、逆転していくときには、

ちゃんと自分で筋道を立てて、だから、こうだと言って、

しかし、非常に苦しみながら、変っていくことの中で、『力』が残るわけですよね。

考える力も、悩む力もね。」

 

澤地さんの言葉のあとに、姜(カン)さんは、こう語った。

 

「やっぱ、人間的な価値観ですよね。それを文学というものは引き受けるんだと。

これは…加藤さんの言葉としては、すごく大胆なことをおっしゃっていると

思うんですよね。

人生、及(およ)び、社会の目的を決めるんだと。文学が…。

あの…、人間の預(あず)かり知らない、さまざまな力とか、まあ、戦争の場合とか

ですね、現在のような経済的破綻とか、いろんな出来事が起きるわけですよね。

…人間が生きてきたということの証(あかし)が、一点でもあるかぎり、

文学はそこを見つめて、それを多くの人に、伝える力を持っているし…。

あの…、普遍性を語る思想家が、同時に、文学というところを、拠点(きょてん)

にところに、加藤さんの、稀有(けう=めったにないこと)な現代的な意味が

あるんじゃないかと、僕は思うんですね。

加藤さんはすごいなと思うのは、戦争を語っても、たとえば、平家物語が出てきて、

そして今度は万葉の世界に移って、それが、ぴたりとね、先の戦争に戻(もど)って

くると、全部そこで収斂(しゅうれん=まとめること。集約)できる人なのね。

 

それは、僕は、膨大(ぼうだい)なストック(=在庫品。手持ちの品)をチューニング

(=周波数に同調させたり、楽器を調律すること)できる、

…干物(ひもの)だけではなくて、つまり、古典だけではなくて、生ものについて、

つまり、いま起きていることについてね、非常な鋭敏な感覚を持っていなければ、

ああいうことは出来ないと思います。

 

つまり、干物の世界の学者は、いくらでもいるんですよね。たくさんいる、

文献、考証、的な人は。でもそれは、加藤周一には、なりえないんですよ。」

 

この言葉のあと、澤地さんはこうも語った。

 

「生きているというのは、形があるわけじゃないけれども、自分の生き方は

こうだという、ひとつの軸(じく)みたいなものが、主軸というものが

あるんだと思うんですよ。

風がこっちから吹いたら、こっちへ向いたほうが楽なわけですよ。

逆(さか)らわないほうがね。でも、そうやって、多くの弱い人間は

生きているけれども、加藤さんは、非常に若いときから、醒(さ)めていて、

ものを客観的に見る。それから、自問自答を繰り返すということで、

自分と他人との関係においても、己(おのれ)との関係においても、

この生きる主軸というものが、ぶれなかった人。珍(めずら)しい人だったと

思うんですね。

容赦(ようしゃ)しない激しさというものを加藤さんは持っていた。でもね、

言葉をはっきり言うってことは、自分の責任が逃(のが)れがたくなるってことで

しょう。それから、人に対して、容赦ない批判を加(くわ)えるってことは、己にも

厳(きび)しくならざるを得ない。

そういうものを抱(かか)えて、加藤さんはね、やっぱりね、少数派であることを

どこかで自覚せざるを得なかったと思うんですね、日本の戦後の社会のあり方で…。

少数派っていうのはね、針鼠(はりねずみ)じゃなけどね、どこから、突付(つつ)

かれても、ちゃんと戦えるようにね、防備をきちっと持っていて、毅然(きぜん)として

ねばならないという、そういう辛(つら)さがあるんですよね。

私は、加藤さんが、あれだけの仕事をなさったのには、少数派であることを

自覚して、少数派であるということで、そのことで、揺(ゆ)らいだり、

それから、それを変えようとはしない。私はこれで行くと。しかし、そのためには、

漫然(まんぜん=とりとめのないさま。ぼんやりとして心にとめないさま)としていた

のでは、自分の志は貫けないと、早くからわかっていた人だったと思うんです。」

 

このあとに、姜(カン)さんは、こうも語った。

 

「戦後70年というのは無いんじゃないかと、あるところで、書いたことがある

んですね。つまり、戦後という言い方で、ある時代を区切っていく、

そういうありかたが終わるんじゃないかと。で、そのときに、戦後というのが、

なし崩(くず)し的に、変っていく。で、おそらく加藤さんは、それを、うすうす、

感じられたと思うんです。で、もしかしたら、

戦後という、自分達が込めてきた時代が、なし崩し的に終わっていくんじゃないかと。

だからこそ、戦後っていうのを、もう一回、確かめたい、それを伝えたい。

僕は、たぶん、そういうふうに感じているんですよね。

そういう点では、加藤さんは、本当に、世界的な知性といっていいと思うんですよね。」

 

加藤さんの言葉は、いろんな人に届いていったと思うんですね。

実はちょっと、意外な方が、加藤さんの言葉を受けとめていらっしゃるんですね。

 

『火垂(ほた)るの墓』(原作・野坂昭如・のさかあきゆき・新潮社)の脚本も書いた

アニメーション映画監督の高畑 勲(たかはた いさお、1935年10月29日生まれ )

さんは、

スタジオリブリ(東京都小金井市)で、このように語った。

 

「加藤さんが、お遭(あ)いになってきたような、過去に何があって、それが

どういう意味を持っていて、現在にどういう意味を及(およ)ぼしているかとかね。

それから、あるいは、日本人の、その…心の問題を扱(あつか)ってですね、

こういう性癖(せいへき=性質上のかたより。くせ。)を持っていると。で、

そういう所(ところ)とつながっているから、将来にわたっても、

警戒しなけらばいけないとかね。

 

『昔、やったけど、あれは、バカがやったんで、俺達はこれから、そんなことは

やらないよ』っていうのは、怪(あや)しいと。

…、すばらしい先生ですよね。とても、及ばないけれども、学んで、生かすことも

できる。できるはずであると。能力に応じてですけど、こちらの。

…先生ですよねぇ…。」

 

実写 映画『火垂るの墓 -ほたるのはか- 』公式ホームページ

http://www.hotarunohaka.jp/

ジブリDVD公式 | 火垂るの墓

http://wdshe.jp/ghibli/product/?cid=251

 

『加藤さんに、戦争体験はお聞きになったことはありますか?』という

司会の桜井洋子さんの質問に、澤地さんはこう答えていた。

 

「ありません。私はやっぱり、封印していましたね、それは。この人には、

プライベイトなことは聞いてはいけないんだと思っていました。」

 

続けて、姜(カン)さんは、語った。

 

「加藤さんはあまり語ってはいらっしゃらないけれども、医者として、被爆後のね、

広島にも入っているわけですよね。」

 

「東京大空襲のときの、東大の医局員として、本当に寝食を忘れて、手当てをした

ということで、空襲がどんなに惨(むご)たらしいかということを、お医者さまとして、

経験してらっしゃった。そのあとに、広島が来るわけですよね。」

と澤地さんは話した。

 

「やっぱり、加藤さんが、戦争に対して、なぜ反対するのか?…それを、ただ単に、

一貫(いっかん)して言っていればいいというのではなくて、やっぱり、加藤さんは、

自分が発言する以上、いまを生きている人たちに、いかにしてそれを伝えるか?

ということに、ものすごく、創意工夫された人だと思うんですよね。」

と姜(カン)さんは話す。

 

一方で、その…、先の大戦をですよね、止めることができなかった。まあ、いわゆる、

当時の知識人もいるわけですよね。その当時の知識人をですね、

痛烈といいましょうか、批判をね、している VTR(=録画)もあるんですね。

NHKには。それをご覧いただきます。

 

【以下の資料】2000年放送ETV特集『加藤周一・歴史としての20世紀を語る』

 

1941年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、米英と戦闘状態に入りました。

このとき、加藤周一さんは、22歳。東京帝国大学の医学部に通う学生でした。

 

◇「12月8日、まあ、冬の晴れた日でしたけれど。私は学校に行って、普通に行って、

それで、ニュースで、お昼ごろかな、あのう…今朝(けさ)始まったということを

知ったんですけどね。私達は、アメリカに挑戦すれば、負けるだろうってことは

知っていましたから。いよいよ、真珠湾というときには、暗澹(あんたん=

暗く陰気なさま。全く希望がもてないさま)たる気持ちでしたね。」

 

太平洋戦争に勝つ見込みが無かったことは、当時の大学生にもわかっていた。

戦後になって、当時の知識人たちが『何も知らされていなかった。騙(だま)されて

いた』と発言したことに、言い知れぬ軽蔑(けいべつ=相手の人格・能力などを

劣ったものと考えて、まともに相手にしないこと)を感じたといいます。

 

1942年、亀井勝一郎、小林秀雄など、著名な知識人が集まり、『近代の超克

(ちょうこく=困難や苦しみにうちかち、それを乗りこえること)』

(文学界12月号)という座談会が開かれました。

 

西欧近代文明の行き詰(づ)まりを、日本の精神文化が乗り越えていくという

主張が展開されました。

 

加藤さんは、戦後、この座談会を批判しています。

 

◇「あの『近代の超克』というのは、まあ、要するに、あの…、御用学者と、御用文学者の

集まりですね。だから、…戦争を、つまり、近代の超克という理屈で、擁護するって

いうかね、支(ささ)えるっていうか、肯定する座談会ですよね。結局はね。

 

近代の超克っていうのはね、第一次大戦以来ですね、主として。ヨーロッパの中に、

ヨーロッパの没落という考え方が、かなり、強く出てきたんですね。

ヨーロッパ近代に対する批判を含(ふく)んでいるんわけですよ。代表的には、

シュペングラーの『ヨーロッパ(西洋)の没落』という本やなんかでね。

 

で、まあ、たくさん、そういう議論があって、そこは、学者が入っていますから、

あの…、『近代の超克』座談会に参加した人たちは、そういう本をよく読んでいて、

よく知っている人たちがいて、ヨーロッパ人自身が『近代は、下降している』と

言っているわけでしょう。

 

だから、その代(か)わりに、もっと、その、『ヨーロッパの近代じゃなくて、新しく

日本が、指導者になって、その近代の超克、つまり近代の先の、新しい文明を

創(つく)ろう』という議論、だよね。

 

で、その議論はね、私を説得しなかったんですね。その理由はね。わりに簡単で。

確かに、ヨーロッパ人は、『近代は、いろんな行き詰まりに達していると、

だから、なんとかしなければならない』と言っていたわけなんですよね。

 

だけど、誰ひとりとしてですね、あの、『ついては我々のところでは、困ったから、

日本に助けを求める』と、言っている人は、ひとりもいないわけなんで。

日本のほうは、『近代の先に出る』と言っても、国内の状態を見渡すと、

いろいろな点でね、近代以前ですよね。

 

憲法の中には人権が書いてない。人権という言葉はない。国民という言葉

さえもない。日本国憲法の中には、国民という言葉は、あらわれないので、

臣民(しんみん)ですよね。臣民は、近代以前の用語なんですよ。ヨーロッパ語では。

 

だから、我々の課題は、近代と対決して、近代の中からどこを、その、日本の

近代以前の名残(なごり)を、どのように処理していくかという、大きな課題

としてあったわけですから。その個人の人権を認めることの方が、日本社会の

目的でね。圧倒的な。で、その先に、それでは駄目(だめ)だから、もっと、新しい

思想を、と言われても、そういうことは空理空論だと思いましたね。」

 

加藤さんは、一回性の体験を、この上なく大切にし、それを踏みにじるものに、

抵抗し続けました。日本人が、なぜ、軍国主義化の流れに、抗(こう)し切れなかった

のかという、重い問いを、自(みずか)らに課してきました。

 

◇「だから、私が、徴兵を受けなかったのは、肋膜炎のおかげもあるんですけどね。

あの…、医者だったから。若い医者だったから。からだが肋膜炎になって、医者だという

ことになると、若干の医者はどうしても病院に必要ですからね。だから、

徴兵されなかったんじゃないですか…。で、まあ、空襲でも死ななかったんですけど。

 

だけど、大変、強い印象ですね。というのは、友達が、死んでいますから。だから、

学校の同級生や友人は、かなり、おおぜい、死んでいる。で、戦争は私にとって、

自分は偶然に生き延(の)びたけれども、理由があって生き延びたわけじゃなくて、

偶然ですから。何の理由もなく、私の友人は戦争で死んでしまったからね。

 

だからそれは、強い、だから戦争に反対っていうか。どうもね、私の友達を殺すほどの

理由がね。そう気軽に、そう簡単に見つからないですよね。そういう殺しを

正当化するような理由も、なかなか見つけることが困難だと思うから。

 

だから戦争反対ということになるわけですね。多少は、まあ、死後の命っていうのはね、

どういうふうに考えるか、人にもよるでしょうけども…。あの…、その死んだ友達が、

もし、生きていたら、いま、言わないだろうことを言ったりね、言うに違いないだろう

ことを、黙ってたりね。少なくとも、私が、しゃべることが可能であるかぎりにおいては、

ちょっと、まずいっていうかな、拘(こだわ)りがあるんですよ。」

 

臣民(しんみん)  Yahoo!百科事典

 

君主国において、国王たる君主の支配する対象者が臣民と称される。日本の場合、

明治憲法下において国民は臣民とよばれた。

近代の市民国家や現代の民主国家においては市民とか国民であり、

一定の政治的参政権を有し、公式的には主権者たる地位が確保されている。

臣民たる個人は国家や全体に対して従属的なものであり、忠誠心が要請されており、

市民的自由の概念と対比される。  [執筆者:福岡政行]

 

◇「幸いにして、私は、太平洋戦争に生き延びた。多くの青年が毎日、死に、

その中には、私のふたりの親友もふくまれていた。

 

戦(いくさ)のあいだ、語り合うことの多かった旧友のひとりは、中国の戦線へ行き、

病を得て帰った。

 

戦後の東京で出会ったときに、『政治の話は、もうやめよう』と彼は言った。

『ぼくは、ひっそりと、片隅で暮らしたいよ』

 

『しかし、きみを片隅から引き出したのは戦争だね。戦争は政治現象だ』と

わたしは言った。

 

戦の痛手は、私の想像も及ばぬほど、深かったに違いない。それは、私の想像も

及ばぬ経験があったからだろう。もはや、それ以上に、何も言うことはなかった。」

 

◇「…で、戦争の中で起こった、ある経験が、その彼の性格とか考えとか、そういう

ものを、破壊したと思うんですよね。で、これが、あのう…、まあ、それは、どういう方角

か?というと、戦争に行く前は、戦争に対する明瞭な意見を持っていた人なんですよ。

 

それから、その彼の言うことは、ただ、現状に満足するというだけじゃなくて、ほかの

ことは一切ね、自分のまわりにあること、要するに周囲の環境というものは、こちら

から働きかけても、どうしようもないものだから、もう、一切、関心を持たないと。

それについて考えなくて、ただ自分の現状の中でもって、小さな満足だけを求める

という、態度ではなかったわけね。

 

戦争に行く前は、そういう意味では、知的活動の活発な人だった。普通の人以上に。

知識もありましたけどね。だから、知的活動を持っていたんです。ところが、

帰ってきて、つまりね、あの…、どうせ、変えることができないんだから、だから、

いっさい、そういうことに関心がないというのはね、知的活動の縮小ですよ。

だから、後退でしょう…。」

 

≪この後半は次号へ続きます≫

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最後に補足として、余談になりますが、

加藤さんは、文学について、下記のようなことを書いています。

 

◇「一人の人間の読書の量はかぎられているので、古典を読むことが

多ければ多いほど、新刊書にさくことのできる時間は少なくなり、

古典の必要をするどく感じれば感じるほど、新聞や雑誌から

遠ざからざるをえないということになりましょう。

 

永井荷風(ながいかふう)は、それを極端な形で言いました。

『もし文学者になろうと思えば、いまの文芸雑誌をいっさい読んではいけない』

…私はそうは思いませんが、荷風はただでたらめを言ったわけではないのです。

 

その多くの弟子たちによれば、芭蕉は『蕉風の俳諧は不易(ふえき)と

流行を兼(か)ねなければいけない』と言ったようです。

去来(きょらい)はそれを、『芭蕉の句は、不易の句と流行の句がある。』と

いうふうに、二つに分(わ)けて考えていたようです。しかし、たぶんそれは

まちがいで、芭蕉の言いたかったのは、蕉風の一つの句は、本来同時に

不易の面と流行の面とを兼ねていなければならないということだったのでしょう。

 

古典というものは現代文学からはなれて別にあるのではなく、もし生きている

古典というものがあるとすれば、それは常に現代文学の中にあるのであり、

また、現代文学は、もし、それがすぐれたものであるとすれば、いつか

古典になるものです。

 

そういうことは自然科学にはありません。自然科学には、いわば流行だけが

あります。もっと正確にいえば、不易なものは一度確立されると、

流行のなかに吸収されてしまいます。」

 

※ヤフー辞書から  

 1. ふ‐えき【不易】[名・形動]

  1 いつまでも変わらないこと。また、そのさま。不変。

   「―な(の)教え」

  2 蕉風俳諧で、新古を超越して変わることのない俳諧の本質。

 

 2. ふえき‐りゅうこう【不易流行】別ウィンドウで表示

      蕉風俳諧の理念の一。新しみを求めて変化していく流行性が

   実は俳諧の不易の本質であり、不易と流行とは根元において

   結合すべきであるとするもの。

 

加藤周一さんは、1919年生まれ。奥さんはドイツ語を話す、

美しいオーストラリア女性だそうです。

 

【資料】 読書術・加藤周一・カッパブックス

 

日本国憲法第9条 - Wikipedia

 

加藤周一さんの非公式サイト。年譜、著作目録、参考文献リスト等。

http://kshu.web.fc2.com/

加藤周一 - Wikipedia

 

九条の会・オフィシャルサイト

http://www.9-jo.jp/kaikenvideo.html

加藤周一 - 加藤周一の軌跡

http://kshu.web.fc2.com/index.html

加藤周一-Yahoo!百科事典

 

加藤周一講演会 (NULPTYX:石田英敬研究室)

http://www.nulptyx.com/lec_kato.html

「加藤 周一」の書籍一覧

http://www.kamogawa.co.jp/moku/tyosya/ka/kato_syuiti.html

加藤周一講演会[映像ドキュメント.com]

http://www.eizoudocument.com/0106katou.html

姜尚中(カン サンジュン) - Wikipedia

 

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☆☆ 評論家・加藤周一さんの思想≪後編≫

 

(NHK教育の『アーカイブス』から)

 

【資料】 NHK教育の『アーカイブス』

東京渋谷区の日仏会館での、桜井洋子さんの司会による番組

(3月31日(火)午前5:40〜5:50)

http://www.nhk.or.jp/archives/

 

※ 以下、 ◇ のある「」 内は、加藤さんが語った言葉です。

 

ーーー

 

戦後6年経(た)った、1951年。日本は、講和条約を結び、海外への渡航が自由に

なりました。

 

その年の秋、加藤さんはフランスへ留学。そこで、ヨーロッパでは、戦争中に、

ファシズムに対する抵抗運動が、想像以上に組織されていたことを知りました。

 

◇「地下運動でもって、その、いろんな、個人が、連帯感を持って、やるわけですよね。

しかし、それもね、結局、連帯が保障されるのは、究極的には…、あの…、

自由意志の問題なんですよ。どちらへも、動けるわけ。

 

同志との連帯(れんたい)を取るか、裏切(うらぎ)りをとるかというのは…。

その場に臨(のぞ)んでの、個人の場合ですね、そうすると、個人の自由な決断と

いうものが、連帯を支(ささ)えるわけで、それ以外、ないわけですよ。

 

ところが、一見(いっけん)似ているんだけども、個人が集団に埋没しているときは、

その一種の連帯行動をとるわけですね。共同行動を、少なくとも。

だから、それとその、レジスタンスの連帯とは、原理的に違うと思うんですよね。

 

つまり、個人の集まりであって、個人と個人の、まったく自由な決断によって支(ささ)

えられている、連帯感がある場合と、そうじゃなくて、初めから、個人が無(な)くて

集団に埋没されている。だから、ばらばらな行動をとらなくて、一緒の行動をすると

いうこととは、表面上は似ているんだけど、根本的に違うんだと思うんですね。

 

で、日本では、初めから、個人でないから。個人が集まって、そこで連帯になるって

ことがないですよね。集まろうにも、個人じゃないんだから。

 

だから、それは、むしろ、慣習によって、集団の圧力で持って、同じ行動をとるように

させて、みんなが協力するということはあるわけ。そして、それは日本社会の

秩序維持にも役立つわけだし、あれにも役立つんですよ。

 

しかし、その…、権力に対してね。場合によっては地下で、連帯というのは、

成(な)り立ちにくいんですよね。なかったわけではないけど、まったく、

なかったわけではないけど、限られている。

 

日本が再び戦争をすることが、ないようにできるかどうか、もっと大きくいえば

世界だけども、それはもう、ほとんど、個人の力というのは、ゼロに限りなく近い

微力でしょう?

 

だから、できるできないということからいえば、できない確率が非常に大きいわけ

だけどね。だからね、反対をやめる、というんではないんだね。

反対をすることはできるわけね。目的が達成したいんだから。

 

そうするとね、あの…、私(わたし)の満足ということだけじゃなくて、だから

死の問題なんですよ。

 

死の問題で…。問題は、だから、私の友達が殺されたって。殺されるような

状況をつくることに、反対だ、って、こういう議論でしょう。

 

で、その反対っていうのはね。その、目的が達成して、実際に、戦争が廃止

できても、できなくても、やっぱり、反対するんですね。

 

なぜかというと、その…、他(ほか)に何をするんですか?…ということよ。

他に、私に何ができる。私だけにできて、その目的達成の見通しが、

いくら悪くても、それじゃ、代(か)わりに、もし、しなければね。あの…、

戦争に反対しないで、何ができるか…。

 

たとえば…、孔子(こうし)が、牛ね…、『牛がかわいそうだ』っていうんで、

『助けよう』って言って、すると、弟子が、『1頭だけ、助けたってしょうがない

じゃないか』というと、孔子は、『しかし、この牛が、私の前を通っているからだ』と、

答えたというのがあるでしょう。

 

で、それはね、第一歩ですよ。その自分の前を通る牛を、本当に、しんみりというか、

かわいそうと思わなければ、それは、ただ、統計的な数字について、

しゃべってみても、しょうがないんだということでしょう。

 

まあ、孔子の時代は、統計はなかったけどね。だけど、まあ、そういう、たくさんの

牛が国中にいるって言ったんだから、同じようなことですよね。

 

…だから、そういうことが、あの…。初めは、一人(ひとり)、人の命が大事でない

人は、ただ抽象的に、何百万の命のことをしゃべっても、それは、ただ言葉だけで

あってね。あの…本当に行動につながっていない。

 

行動があるのは、その、やはり、情熱がなきゃあ…、それで…情熱は、引き金

(ひきがね)は、やはり、ひとりの人間だと。

 

あの…、戦後世代の…。戦争に行って、戦争に至(いた)る、戦争責任というのは、

直接にはない、と思いますね、わたくしには。

 

しかし、戦争を、かつて、生み出した、考え方、あるいは文化が、今日(こんにち)

持続していればね、それの、持続か、断絶か、ということは、戦後世代の

責任だと思いますね。

 

だから、直接に、戦争行為は、知らなかったから、今は戦争なくなったんだから、

だから、過去の事実としても、戦争に責任は無(な)い。戦争犯罪にも責任はない。

 

しかし、戦争を生み出した。あるいは、戦争を生み出した文化は持続しているから、

で、その中で育っているわけですから、戦後の人も。だから、その文化に対して、

どういう態度をとるのかということですね。それにはもちろん、責任がありますよ。

 

ことに、戦後は比較的に自由なわけで。言論の弾圧があるわけじゃないし、情報が

管理されているわけじゃないんだから、建前としては。もし望めば、十分(じゅうぶん)

な情報を収集することができるし、自分で考えることができるんでね。

 

で、戦争を生み出した文化を承認すれば、それは、間接に、戦争に対する責任がある

ということで、将来の、可能な戦争に対する責任があるということになりますね。

 

だから、過去に対して、責任がないけれども、未来に対して、責任があるわけよ、

要するに。」

 

ノンフィクション作家の澤地久枝(さわちひさえ)さんは、語った。(下記)

 

「あの…。自分の友達が死んだということに対してね。体が引き裂かれるような

痛みがあった。そのことは死ぬまで私は忘れない、って、そのことは自己確認

として思っていらした。だから、加藤さんは、戦争中は孤立していらしたと思う

んですよ。自分の思っていることを言ったら、引っ張(ぱ)られるから、言えない。

 

加藤さんがね、戦争が末期(まっき)になった頃、空襲で、患者が次々に来る。

三度以上の火傷(やけど)をしている子どもなんか、救えないわけですよね。

で、いろんなことをしているうちに、死んでゆく。加藤さんは、『羊(ひつじ)の歌』

の中では、わかりやすい言葉で書いているんですよね。

 

『そのときほど、我(われ)を忘れて働いたことはなく、我を忘れて働く人の

仲間であったことはない』…これはね、加藤さん、このとき、24か25くらい

ですかね。それまで、孤高の人みたいにして、こんな若い人が生きてきて。

だから、その共同作業をやったわけですよ。チームをつくって、もう、みんなで

やったわけでしょう。非常な生きがいを、これ人生で最初のひとつの出会い

だったと思いますね。

 

『私は希望にあふれていた。』…この敗戦の後ね。『そのときほど、将来について

楽天的であり、何事か、成(な)さんとする勇気に満ちていたことは、かつて

なかった。』

 

…だからね、こういう、ある意味で、ナイーブなね、よろこびで、日本の敗戦を

迎えた、これから自分は生かされていくだろうと思う、加藤さんがいて、それから、

六十何年、赤だといわれたりしながら、営々辛苦、お勉強なさりね、次々にね、

そして、私たちの前でね、『それは、こうじゃないですか?』といってくれる人が

いたんだなあって、あらためて思っています。」

 

政治学者(東京大学教授)の姜尚中(カン サンジュン)さんは語った。(下記)

 

「自分の友人が死んでも、面と向かってね、この戦争について、反対といえない、

ましては、酩酊状態で、太平洋戦争を、絶賛するような知識人たちの言葉を

聞きながら、自分は暗い気持ちでいなければならない。

 

そういう時代に、加藤さんの、あるコアができあがったと思うんですね。

戦争に反対するってことは、今を生きている普通の人たちからすると、

なんか大(だい)それたこと。

 

おそらく、若い人のあいだにも、戦争反対、平和が大切だということを

言い出すと、まあ、今の流行の言葉でいうとKY(ケーワイ=空気が読めない)、

あるいは、それを言い出すこと事態に、非常に、内側から抑制がかかる。

 

だから、戦争に反対という、それだけをとらえていうと、きっとそれは、特別な人が

いう言葉で、普通の人はなかなか言えないとか、あるいは、腰が引けてしまうとか。

 

で、たぶんですね。そういうことが、最(もっと)も自由で、最も言論が達成されて

いるといわれている時代に、そうなっているということが、ものすごく、僕は、

加藤さんからすると、一面、ある種、歯がゆくて仕方がなかったんじゃないかなと

思います。」

 

澤地久枝(さわちひさえ)さんは、語った。(下記)

 

「20世紀は二つの世界大戦を経験し、そして、第一次世界大戦のあとにも、2度と

戦争にならないようにと、いろいろな試(こころ)みがなされて、人間は戦争から

得(え)るものが何もないということを、2度も、教訓とたくさんの犠牲を出しいて、

体験しながら、なぜ、今も食い止められないのか?

 

という、済し崩し(なしくずし=物事を少しずつかたづけていくこと。徐々に物事を

行うこと)の戦争は、終わったことがない。という、それは加藤さんにとって、とても

大きな痛みだったと思う。

 

加藤さんはすごくいいことを言われたんで、若い人にぜひ心に留(と)めておいて

もらいたいと思うことは、若い人には戦争責任はないと、その時には、生まれても

いなかったんだろうからと、戦争犯罪にも関係はないと。

 

しかし、これからの社会、未来に対しては責任があるんだということを、加藤さんは

言ってらっしゃる。この言葉の中には、大変な思いが込められていると思うんですね。

 

若い人たちはそれをね、考えて受け入れてくださらないと、加藤さんの、長い、

苦しい、孤独な戦いは、哀しい(かなしい=切ない)と思います。

 

『社会全体が、多かれ少なかれ、戦争に関与するようになって行(い)き、必ず、

戦争は拡大する。ある程度広がってしまえば、それは止めることはできない。

だから、九条の会を、こうやって、やっていくことに、意味がある。』

 

とおっしゃったのが、大勢の聴衆を前にして、発言をされた、最後なんですね。」

 

(注釈)『九条の会』は2004年に発足。憲法9条を守る活動を展開。

 

姜尚中(カン サンジュン)さんは語った。(下記)

 

「何か、今の日本の風潮は、日本を好きか嫌いか、日本主義化、日本主義じゃないか、

というようなことでね、その人が国を愛するか、愛さないかを分(わ)けてしまう。

それって、戦前、げっぷが出るほど、加藤さんは、見てきたと思うんです。

 

加藤さんは、結局、日本を愛するがゆえに、日本主義には、ならなかったと思うん

です。」

 

加藤さんは、晩年、今の時代をどのように、どんなふうに見てらっしゃったのか?

妻で、評論家の矢島翠(やじまみどり)さんのお話を伺(うかが)ってまいりました。

 

矢島翠(やじまみどり)さんは語る。(下記)

 

「晩年は、九条の会に参加してほしいと、思っていたんじゃないですか。…だから、

戦争を実際に体験しないけれど、でも、すぐそこに迫(せま)っているということを

ね。迫りうるということを、体験してほしいと、いうことを望んでたんじゃないかしら。

 

わたしはちょっと、驚いたんですね。ああいう、実践体験をしたことのない人だから。

だからね、よほどね、切羽詰まって(せっぱつまって=ある事態などが間近に迫って

どうにもならなくなる。身動きがとれなくなる)っていうかな、死ぬ前に、これは、

しておきたいということがあったんじゃないかしら。」

 

姜尚中(カン サンジュン)さんは語る。(下記)

 

「…あの。今のお話聞いていて、やっぱり、僕なんかと、対談をされたりしたのも、

とにかく、今、言わなければいけないと、いうような、なんかこう、秘(ひ)めたものが、

おありになったんじゃないかと。」

 

澤地久枝(さわちひさえ)さんは、語った。(下記)

 

「あの。直接、口にはなさらなかったけれども、非常に体調がお悪いんじゃないか

って、思われるように、背中(せなか)も曲(ま)がってきて、もう、本当に、杖(つえ)を

ついて…、いうような状態でも、最後まで、会合に出たらっした。そして、明晰な

お話をしてらっした。というのが非常に印象的ですね。

 

わたくしが、九条の会というのは、このメンバーが死に絶えても、やろうとしている

ことが、実現しないだろうと、わたしは思っていると、言ったんですよね。

 

だけど、この呼びかけ人が、ひとりになっても、やらなければならないんだと、

わたしは心を決めていますって、言ったんですよね。それは、そんなことを

言わなければならいような、感じに、もう、ぐるっと…。加藤さんは、私の前に

座(すわ)ってらしゃった。何にもおっしゃらなかった。ただね、すごい目で、じいっと、

見てらっしゃった。わたしはね、じいっと見られていることでね、試(ため)されている

けど、同時にね、『よし、わかった』って言われている気がしましたね。」

 

さて、いま、日本は、世界は、どこへ向かおうとしているんでしょうか?

去年、加藤さんは、どうしても言いたいことがあるといって、

病(やまい)を押(お)して、インタヴューに答えてくださいました。

 

で、現在を考えるために、焦点を合わせたのは、1968年でした。

 

ETV特集加藤周一1968年を語る〜言葉と戦車・再び〜

 

加藤周一さんの最後のメッセージです。

 

入院を控えた加藤さんは、病を押して、インタヴューに応(おう)じてくれました。

 

1968年は、世界中で、同時多発的に、体制への異議を訴えた時代でした。

 

この時代、大国アメリカは、泥沼化したベトナム戦争に足を踏み入れていました。

 

盛り上がる、反戦運動の激しさに、加藤さんは、驚きます。

 

さらに、常識的な価値観を真っ向から否定する動きも巻き起きていました。

 

東欧では、プラハの春による改革が、ソビエト軍によって、押しつぶされていました。

 

戦車に、言葉で、抵抗しようとする市民の姿は、加藤さんに、強烈な印象を

残したのです。

 

あの激動から、40年。加藤さんは、いま改めて、あの年の意味を考えてみる必要が

あるといいます。

 

当時と、似た、閉塞感(へいそくかん=通路や出入り口がふさがること。また、

閉じてふさぐこと)が、漂い始めているというのです。

 

◇「…未来ですよ。…将来は、どうか?、っていうと、いまの日本には、閉塞感があると

思うんですね。だけど、表現の方法を、見出していないし、ちょっと、しかたがない

みたいに、なっている面が大きいと思うんですね。

 

しかたがないがね、ある時点で、爆発すると、あまり論理的でない面も、出てくる

わけですよ。気分の問題だから。で、それが、閉塞感で。

 

しかもそれが、非常に広く、シェア(=分けること。分配。分担)が。参加されている

非常に大勢の人がね。それが現在の状態で。(68年と似ている)

68年が過去じゃないっていったのは、そういう意味ですよ。」

 

1968年について、加藤さんが書いた評論集『言葉と戦車』。これは、加藤さんが

その年、見聞きした、世界の激動を考察した、文明批評です。

 

プラハの春とその弾圧。それに触発された加藤さんは、戦車に象徴される権力と、

市民が発する言葉について考えています。

 

それは、その後の、加藤さんの重要なテーマとなりました。

 

加藤さんは、1968年を思い起こさせる、ひとつの言葉から語り始めました。

 

それは、アメリカの次期大統領、オバマによって、唱(と)えられた言葉です。

オバマが選挙期間中から、訴(うった)えた「チェンジ Change(変革)」です。

その言葉に、加藤さんは、早くから注目していました。

 

「アメリカは変えられる!」(オバマ新大統領)

 

◇「オバマが、チェンジっていったでしょう。(笑)チェンジで、どうして、そんなに

茫漠(ぼうばく=広々としてとりとめのないさま)としたことで、何をどう変えるか

ということではなくて、ただ変えるということで、シンボルになったんだね。

そして、なりえたということが、おもしろいと思う、我々には。

 

言葉だけの問題じゃなくて、あれだけの反応を、引き起こせるのは、それは、

どこかで、深い現実に触れているからですよね。

 

あの時もあったんですよ。68年のフランスでね、街で、スローガンの1つはね、

『チェンジ』なんですよ。

 

『生活を変えよう!生き方を変えよう!』という意味だったから、

ほぼ、オバマのと、似ているんですね。」

 

1968年の世界の動きをまとめた、加藤さん直筆のメモ。同時多発的に変革を

求める動きが起こっていました。

 

アメリカでは、ヒッピーズとベトナム反戦運動、中国では文化大革命の嵐が

吹き荒れていました。

 

その中で、加藤さんが特に注目したのは、東ヨーロッパのチェコで起こった

改革、『プラハの春』でした。

 

1968年、夏。友人と共に、チェコスロバキアに向(む)かいました。新しい社会主義を

求める改革は、首都プラハを中心に始まっていました。

 

それまでの、チャコスロバキアは、スターリン型の社会主義を掲(かか)げる警察国家

でした。自由な報道が許されず、密告が奨励(しょうれい)されていました。

 

しかし、1968年1月、改革派のアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に就任。

大胆な改革に着手します。それまでの検閲を廃止し、報道規制を緩和するなど、

従来の社会主義とは違う、人間の顔をした社会主義を実現しようとしたのです。

 

◇「まったく新しい社会主義が成立したという、熱狂的な支持は、プラハを

中心としてたな。でね、その、大変な希望に満ちていたわけですね。

その希望は、自由ですね。雑誌なども出始めていたし、『何を書いても大丈夫

(だいじょうぶ)という時期がついに来た!』という感じでしたね。

 

プラハで会った人たちは、作家たちが、若干(じゃっかん)あったけれども、

彼らは、非常に、よろこんでいてね、これで自由だ!と言っていたんですね。

 

あなたがたは、プラハのテレビとラジオを聴いて、ご覧なさい、と。これは、世界で

最も、自由な放送だ、と。どんなに社会主義国のことを批判しても、

理論の誤りを正しても、誰も何にも言わないし、いわんや、逮捕されるされること

はないと、言うわけです。

 

世界のどこに、現在ね、まったく自由に、資本主義制度を批判し、同じ街(まち)で、

社会主義的なシステムを攻撃するという、そういう街は、全世界にただ1つ、プラハ

だけだという感じだったですね。

 

それは、肉体的には、踊ってなかったけど、精神的には、ほとんど『踊り』『祝祭』に

近いような感じ。完全なる『自由』。

 

で、人類は、初めて『自由』をプラハで経験しつつある。こういうことだった…。」

 

8月20日、深夜、ソビエト軍を主力とする、ワルシャワ条約機構軍が、国境を越え、

チェコスロバキアに侵入。

 

投入された兵士は、14万人以上。戦車、7000両に及(およ)ぶ、軍事介入

(かいにゅう)でした。

 

◇「せっかく、自由な、社会主義国をつくろうとしていた…。もし成功して

いれば、現在の資本主義よりも、優(すぐ)れたね、いまのソビエトよりも優れた、

小国といえども、チェコスロバキアはつくったかもしれないという、感じは、

一晩のうちに、粉砕されちゃった。」

 

加藤さんが、『言葉と戦車』というテーマで、考える、きっかけとなった言葉が

ありました。

 

それは、ソビエトの戦車に、言葉で立ち向かう、市民の姿です。

 

「反革命行為から、あなたがたを、救うために来た」と言う、ソビエトの兵士。

 

プラハの市民は、こう応酬します。

 

「あなたがたは、何をしに来たのですか?誰が反革命行為を行うというの

ですか?」

 

言い負(ま)かされて、泣いてしまう、ソビエトの兵士もいました。

 

言葉で抵抗する市民に、ソビエトの兵士が発砲。85人が命を落としました。

 

『言葉は、どれほど鋭(する)くても、また、どれほど、多くの人の声となっても、

一台の戦車さえ、破壊することができない。

戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハ全体を、破壊する

ことさえもできる。

しかし、プラハ街頭(がいとう)における、戦車の存在そのものを、みずから

正当化することだけはできないだろう。

1968年の夏、小雨(こさめ)に濡(ぬ)れた、プラハの街頭に、相対(あいたい)

していたのは、

圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。』

(『言葉と戦車』より)

 

◇「で、ことに、暴力的な、弾圧があるのは、あれは、ある意味では、『暴力』の側の

敗北のしるしだね。…鉄砲を撃(う)つわけだから。

 

鉄砲を撃つことに注意しないで、なぜ撃つかということに注意すれば、

彼ら自身の、自(みずか)らの敗北を認めるようなものですよね。」

 

若者たちの、異議申し立ては、日本でも広がっていました。

 

1968年から、盛り上がった、全共闘の運動。全国200の大学で、35万人もの

学生が参加したといいます。

 

『1968年に、相次いだ、画期的な事件は、すべて、直接または間接に、

「戦車」または組織された暴力と、「言葉」または人間的なるものとの

対立に関(かか)わっている。』

(『言葉と戦車』より)

 

◇「パリで、まず、爆発する。他のヨーロッパの国でも、同調する。

あれほど違うアメリカでも、パリと似ていたんですよね。パリでもアメリカでも

似たような、一種の、閉塞感が漂(ただよ)っていた。

 

このまま行っても、退屈。食はあるけれど、食べられるけど、それ以上はなくて。

どこまでいけるか?ということが初めから、わかっていて…。すこし、退屈?

それを、裏返せば、生活を変えようという、生活だから、すべてを含(ふく)むわけ。

 

どういう構図を、どういう政策を変えようというのじゃなくて、生活全体を

変らなければいけない、このまま惰性(だせい)ではまずい、という閉塞感が

共通だったと思いますよ。

 

それから、今度、また、20世紀から、21世紀へ、積み残した、閉塞感ですね…。

このままじゃうまくないから。根本的に、変る必要がある…。」

 

20世紀から、21世紀へ、積み残した、閉塞感。

 

2001年の『同時多発テロ事件』以降、世界中で自由を抑圧する力が、

強まっていると加藤さんは感じています。

 

今年(2008年)起きた世界的な『金融危機』。いまだその出口は見えていません。

 

不透明な時代の中で、日本では、秋葉原通り魔事件(2008年6月)など、

衝動的な殺人事件が、相次いで起きています。

 

事件を起こした若者の携帯電話には、社会への憎悪(ぞうお)が書きこまれて

います。

 

◇「」内は、加藤周一さんの言葉です。

 

◇「殺すのは…、実際に殺すのは、あの…、特殊な人たちだけどね。

だけど、それを…、彼らが殺すように…、彼らを招待した、招いた『力』というのは、

誰それといった先生とか、本とか、思想とかいうものじゃなくて、

もっと、漠然(ばくぜん)とした、定義しがたい、その…、あれでしょう…、

そういう閉塞感だと思います。

 

もっとよくならない。働いたって…。それは、月給は、増(ふ)えるかもしれないけど、

それ以上になるはずはないわけでしょう。

だから、それで、満足はできない人が、。大通りに、突然出ることがある。

 

だからね、よくわかるという意味ではないけどね。秋葉原の人なんかの、心理を…。

だから、わたしは、心理を内的に、彼らの心理がよくわかるというんじゃないけど。

よくわからないところはありますけど。

 

ただね、全然、なんにもない…、天から降ってきたというものではないな…、うん。

そうじゃなくて、やはり、下の方に、よどんでいたものが、急に爆発した…。

絶望的爆発ですね。」

 

時代を覆(おお)う『閉塞感』を超(こ)え、生きていくにはどうすればいいのか?

 

透徹した目で、歴史と世界を見続けてきた評論家、加藤周一さん、

最後の言葉(ラストメッセージ)です。

 

◇「だんだんに、システム、組織の力が強くなって、個人の影響力が後退する。

 

それで、個人は、もちろん、働くんだけども、だけど、それは、だんだん、だんだん、

なんていうかな…、専門部分に関する細かい話になって(専門分化が進んで)、

それで、全体として、人間的に、大きな方針、行き先を、指示できるような人がいない、

ということですね。

 

…で、それがね、大変、なんていうかな、凄(すご)みがあるのが…、もうそれは

始(はじ)まっていて、そして、容易(ようい)に覆(くつがえ)らない。だんだん、

難(むずか)しくなっていく…。

 

悪い意味ではね、明治維新以来の日本というのは、ずーっと通して、非人格化、

非個人化、非人間化を進めてきたんですよ。

 

その代価を支払って、いわゆる経済発展や軍事的な力を持つようになった

んだけども、何を犠牲にしてきたかというと、そういうことですよね。

 

それは、だから、その、思想的な、広い意味で思想的な…、教育の問題ですね。

だから、著作業の、もし、効果があれば、少しでも、どんなに少しでも、まあ、

そういう意味で、思想的影響を及(およ)ぼすということが大事です。

(広い意味で、知識人は、思想的影響を及ぼすことが大事)

 

…それで、その思想の第一部は、事実認識ですね。それには、はっきり、何が

起こっているかを理解していなければならないですよ。

 

第二部は、だからどうしようか?ということですよ。これはね、第一部とは

違うんですよ。

 

第一部は、どうなっているか?ということで、感覚的な事実の収集で、

その整理ということですけどね。でも、整理するのにも、すでに必要になってくるのが

『どうしようか?』という、考えは、やはり、人間的感情や空想や、そういうものの

混在した…、一種の、あれですね…、感情的、人間的な感覚の、感覚による

世界解釈の仕方。

 

なんとか、その影響を、人間らしさを、人間がつくったものを、世界の中に

再生させる(人間らしさを世界の中に再生させる)ためには、そのことを『意識』

しなけらばならないですよね。

 

実際、いまある状態を、そもそも、そういうものとして意識して、まあ、戦うなら

戦うとなるわけだけど、戦う前に、なんだかわからないものと戦うわけにいかない

から、だから、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大事ですね

(戦う前に何が相手なのか理解することが大事)。」

 

姜尚中(カン サンジュン)さんは語る。(下記)

 

「僕は加藤さんの頭の中に、68年は、リハーサル(=本番前に行うけいこ。予行演習)

であったのではないか?と今回の(金融)破綻で。もし、あの時(プラハの春のころ)

に、世界が変っていたとしたら、今回の破綻は、もしかして、免(まぬが)れたかも

しれない。いまから、なんとなく、そんな気がするんですよね。

 

つまり、それは、人間の顔をした資本主義が、もし、できあがっていれば…。

でも、結局、そうはならなかった。

 

結局、この40年間、何をしてきたかというと、社会主義は崩壊したし、

資本主義は、人間の顔をしたどころか、さきほど、非個性化、非人格化、

非人間化の、その極地だったと思うのね。

 

これは、僕はもう、秋葉(あきば)の事件なんか、自殺だと思うんですよ。

そのために、人を殺す。

 

加藤さんは、ものずごく、ショックを持たれたんじゃないかな。」

 

※ 以下は、略させていただきました。

 

【資料】 NHK教育の『アーカイブス』

東京渋谷区の日仏会館での、桜井洋子さんの司会による番組

(3月31日(火)午前5:40〜5:50)

http://www.nhk.or.jp/archives/

 

日本国憲法第9条 - Wikipedia

 

加藤周一さんの非公式サイト。年譜、著作目録、参考文献リスト等。

http://kshu.web.fc2.com/

加藤周一 - Wikipedia

 

九条の会・オフィシャルサイト

http://www.9-jo.jp/kaikenvideo.html

加藤周一 - 加藤周一の軌跡

http://kshu.web.fc2.com/index.html

加藤周一-Yahoo!百科事典

 

加藤周一講演会 (NULPTYX:石田英敬研究室)

http://www.nulptyx.com/lec_kato.html

「加藤 周一」の書籍一覧

http://www.kamogawa.co.jp/moku/tyosya/ka/kato_syuiti.html

加藤周一講演会[映像ドキュメント.com]

http://www.eizoudocument.com/0106katou.html

姜尚中(カン サンジュン) - Wikipedia

 

◇ 全編・終了

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